わきまえているのは洗練されていること

私はわきまえるということは美徳だと思っている。自分で身の回りの情報を判断し、それに適する行動をとるという意味だと捉えているからだ。身の程をわきまえない、というのは自分の現在の状況を把握せずに行動を起こし、自分も周囲も意味ある結果を得られないようなことになることを言うものだと思う。わきまえるとは洗練された人の行動につながると思っている。

注意しなければならないのは、自分の判断で、というところである。自分の価値観で判断するのだ。人に判断してもらうのではない。しかし面白いことに、わきまえているかどうかは人が判断する。ここに日本の文化の特徴があるように思う。自分の価値観で判断したことが他人の価値観で認められると言うことである。これは同じまたはほぼ同じ価値観を共有していなければできないことだ。その共有されている価値観とはなんだろう。おそらくそれは「秩序」だ。

身分、立場といった社会を作っている秩序を重要とする(重んじる)考え方はその共通した秩序を理解し、実践することで「わきまえている」と認められる。そしてこの秩序というのが平等でないところにデモクラシーとの葛藤があるような気がする。秩序とは何か。この辺も少し考えてみなければならないようだ。

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