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母を待つ、の2月

新年に母が倒れて入院し、不安と共に過ごした1月だったが、母は奇跡と思える復活ぶりで、2週間くらい点滴だけで飲まず食わずの末に物が食べれるようになり、リハビリをしてなんとか歩けるようにもなって1月末に一次退院した。

この一連の原因は、直腸にできた悪性腫瘍のせいだった。
実は昨年の11月にも母は便秘が続いて救急で病院に行った経緯があり、その際には検査しても何も出なかったのだけれど、きっとその時から不調の予兆はあったのだ。

ああしていたら、こうしていたら…と、“たられば“を語っても何もならないから、とにかく私はこれを良きチャンスと捉えることにした。

そうは言っても病人は自分ではないから、そういう風に前向きに捉えつつも、母自身の生命力や生きる気力に頼るしかない。

ご飯を少しずつ食べられるようになったり、だんだん歩けるようになると、母は思ったよりもやる気を見せ、リハビリにも励んだ。
2週間くらい経ち週末に面会に行くと、想像よりもはるかに顔色も良く、あの救急車で運ばれた状態やその翌日の面会時の姿が嘘のようだった。

母の入院中は届け物や荷物の受け取りなど、会社帰りに病院に出向くことも多く、平日は仕事と時々病院、週末は面会と自分のための食材や日用品の買い物。とにかく自分のやるべきことを粛々とこなす日々だった。

母が手術前に一次退院することになると、私は仕事のない週末にお粥を作りおいたり、豆腐やひき肉、魚のすり身や蓮根のすりおろしなどで消化の良いおかずを工夫して作って、小分けして冷凍ストックしたりと退院後の準備もした。

退院したら今度は、家で過ごす母を気遣って、できるだけ食事を一緒に摂ろうと、半日在宅勤務をして一緒にランチを食べたり、定時で退勤して飛び帰って一緒にご飯を食べたりした。
もちろん腸に一時的に器具を入れている母と同じ物を食べるわけではないが、母には食べることの楽しみを少しでも思い出してほしかった。

母が好きな参鶏湯風のお粥にしたり、リゾット風のお粥を作ったりと、また週末に作り置きに勤しんだ。

母と私は二世帯のため、キッチンも別で、階段の上り下りがしんどい母に合わせて、食事は1階の母の部屋で食べる流れになった。私はできるだけ自分の分も作り置きをしておいて、仕事から帰ってできるだけすぐにその作り置きのものを持って階下に行き、一緒にご飯を食べれるように工夫した。

この時期、私はかなり疲れていて、湯たんぽのお湯を沸かすためにやかんを火にかけたまままま寝てしまったり、朝のお風呂の後にタオルを首にかけたまま服を着て、そのまま出勤して朝の会議で気づいたり…。今までにやったことのないようなドジなことが多発した。

それと同時に、自分の時間が自由に使えないというジレンマも感じていた。
好きなものを買ったりといったちょっとした気晴らしもうまくできていなかったせいで、心の面でもかなり不調だった。これが体調にも影響して、便秘気味で体調が悪いと日々感じていた。薬はあまり飲みたくないが、もう便秘薬的なものを飲むしかないと覚悟したほどだ。

体について私が愛読している、リズ・ブルボーの『自分を愛して!』では、便秘の項目に「便秘はまた、自分時間や、お金、体力などを無理やり与えなくてはならなくなった時にも起こります。」とも書かれていて、かなり合点がいった。

これはなんとかバランス取らねばと、少しずつ自分が楽しそうだと感じることを実行してみた。
何も考えず、ネット配信のドラマを一気見したり、欲しいものを購入したり…。

そんな感じで少しずつ自分を取り戻していった。


本当に少しずつ。


以前は当たり前にできていたのだから一気に戻れそうなものだが、少しずつしか戻れないのだから不思議だ。

手術のついては、退院時には外科の先生の都合で説明が受けられなかったので、退院後の外来でみっちり説明を受けて、手術日や母の再入院の日程も決まった。入院日には付き添い、手術日は一日病院で待機の必要があるという。驚いたことに手術が7〜8時間かかるということだった。

手術の日は10時くらいに病院に行けばいいのかと思っていたら、朝から来てくださいと言われる。ちょっと考えが甘かった…。手術日は、妹がお昼過ぎに病院に来ることになり、とりあえず私は朝から病院に詰めることになった。

そしてその長い1日は始まった。

雨が降り寒い朝、いつもは車で行く病院にバスで向かう。さすがにそんなに長時間車を置いておくのも駐車料金的に気が引ける。
早朝受付の入り口から入り、待合室で待つこと30分。

点滴棒を持って、母が自分で歩いてやってきた。そのまま看護婦さんと3人で手術室に向かった。ストレッチャーで行くのかと想像したいたので、なんだか拍子抜けしつつ、手術室の扉の前で母を見送ると、なんだか涙が込み上げてきた。
悲しいわけではないのになぜだろうと思った。

看護師さんにポケベルをもらい、そのまま病院内のスターバックスへ。
このスターバックスは母の入院後に足繁く通っている、私のちょっとした憩いの場だった。
面会の後に妹夫婦とお茶をしてから帰ったり、退院後に母を病院に連れてきて長い検査時間中に時間を潰したり、時には仕事を持ち込んで過ごしたりもした。

病院という特殊な場所で、病院を感じさせない唯一の場所だった。

その手術の日も、本やipad、ノートなど、この長い待ち時間を有意義に過ごすものを持ち込んで、いつものコーヒーを飲みながら待った。

朝の看護師さんの説明や雰囲気からは、手術が終わらない限りはポケベルは鳴らなさそうだと思った。

だから不安もなく、ただ待てば良いという気持ちでいた。昼頃には妹も到着し、病院内でランチを食べて、またスターバックスに戻っておしゃべりをしながら待った。

そして朝から待ち続けて、8時間を過ぎた頃ポケベルが鳴った。
数字が表す呼び出し元は手術室。
手術後の集中治療室から呼ばれると思ったのに、予想外で、動揺した。

手術室前でも30分以上待たされた。

その間、手術の説明時のリスクの話が頭をグルグル回った。もしかして、最悪の事態が起きたのか、うまくいかないところがあったのか…。

時間から見て、もちろん手術的にはもう終わっているんだろうが、そういう悪いことばかりが頭に過ぎる。

その前の何時間という時間よりも、この手術室前の時間がいちばん辛かった。

結果的には、手術後に執刀の先生からどんな手術を行なったかの説明と、摘出した患部を見せてもらうという普通の事後報告だった。術後に説明があると、予め言っておいてほしかった。そうすれば余計な不安を感じなくて済んだのになぁ。

とにかく無事に手術が終わってほっと胸を撫で下ろし、麻酔から醒めた母と少し話して、妹と夕食を食べて帰宅した。

帰宅したらどっと疲れが出たが、これはやっと大きなひと山を超えたという安堵からのものでもあったかもしれない。

2月はそんな感じで1ヶ月が過ぎていった。
日数が少ないのに、実感として長い1ヶ月だった。





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