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「私とHIV(1/4) ~HIV感染症との歩みをふりかえって~」

CHARM理事長 松浦基夫


1981年に米国ではじめて後天性免疫不全症候群(AIDS)が報告されてから40年以上が経過した。私が大学を卒業して医師になったのが1981年なので、医師としての私の歩みはHIV感染症の歴史にぴったりと重なっている。CHARM設立20周年を記念し、HIV/AIDSの歴史をまじえて、HIV感染症との歩みをふりかえる。

●1981年-1995年の<世界>

1981年6月、MMWR (米国疾患管理予防センターの週間感染症情報) に、「ロサンゼルス在住の男性同性愛者5名にカリニ肺炎が発生した」と報告されたのに引き続き、カポジ肉腫・口腔カンジダ症・潰瘍形成性ヘルペスといった免疫不全に合併する日和見感染症例が次々に報告され、日本にも「男性同性愛者に免疫を破壊する奇病」として紹介された。1982年7月には血液製剤を使用している血友病症例、10月には女性症例、12月には輸血を受けた幼児症例・母子感染による幼児症例などが次々と報告され、この病態は後天性免疫不全症候群(AIDS:Acquired Immune Deficiency Syndrome)と命名される。

1983年5月、フランス パスツール研究所のリュック・モンタニエ博士がAIDSの原因となるウイルスを発見し、後にヒト免疫不全ウイルス(HIV:human immunodeficiency virus)と名付けられた。

私が初めてこの疾患を知ったのはおそらく1983年、その当時の市立堺病院(現堺市立総合医療センター、以下堺病院)で、勉強家の同僚が一流の医学誌であるNew England Journal of Medicine (NEJM) を読んでいて、「アメリカでけったいな病気が流行っているみたいやで」といった感じで教えてくれたのを記憶している。その時は「対岸の火事」そのもので、自分と関わりができるとは夢にも思わなかった。

1984年以降、米国では感染者の爆発的な増加が起こり、世界各国で相次いで症例が報告されるようになる。1987年米国ではじめての抗ウイルス剤(AZT)が認可され、その後次々と抗ウイルス剤の開発が行なわれる。1995年、プロテアーゼ阻害剤が開発され、本格的な抗ウイルス治療が可能となる。1996年、米国で流行開始以来初めて死亡者数が減少した一方で、世界的な流行状況が明らかになる。

●1981年-1995年の<日本>

1983年、帝京大学の血友病患者がAIDSを発症して死亡した。現在ではこれが日本の最初のAIDS患者と考えられているが、当時はそのようには認定されず、1985年に米国在住の日本人男性を「AIDS第一号」として発表した。これは、血友病患者に発症し始めた薬害としてのエイズから目をそらす意図があったのではないかと言われている。

1990年代前半までは血友病のHIV陽性者が、陽性者全体の半数以上を占めるという、世界的に見ればやや特殊な状況にあった。その後HIV感染者は徐々に増加し、1994年には非血友病の陽性者が血友病の陽性者を上回った。

●1986年-1987年 エイズパニック

「エイズパニック」といわれる3つの事件が次々に報道され、この疾患に「死に至る恐ろしい病気」「社会的に排斥されても仕方がない病気」という烙印が押されることになった。

・松本事件:1986年、長野県松本市で働いていたフィリピン女性がHIVに感染していたことが判明し、マスコミ各社が、彼女が売春行為をしていたとして名前や写真を報道した。

・神戸事件:1987年1月、厚生省は「神戸で日本人女性初のエイズ患者」と発表し、その患者は発表の後に死亡した。マスコミ各社が患者の実名・顔写真を報道し、神戸ではHIV検査を希望する人々が保健所などに殺到した。

・高知事件:1987年2月、高知で「HIVに感染した女性が妊娠している」と週刊誌で報道される。(幸い、この女性の実名が報道されることはなかった。)

プライバシーを無視して報道したマスコミは、「一般の人々に注意を喚起することによって感染の広がりをくい止めるためにはやむを得ない」と主張した。これらの報道の結果、いまだにHIV感染症が「恐ろしい感染症」であるという印象を持ち続けている人もいる。

この時期に記憶があるのは、1988年に成立した「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律 (いわゆるエイズ予防法)」である。エイズパニックの後、「エイズの感染拡大をくい止める必要がある」との世論を背景に作られた法律である。「らい予防法」を下敷きにしたこの法律は、HIV陽性者を、感染を拡大させる元凶として取り締まるかのような法律であり、陽性者の医療や福祉に対する言及はなかった。

●1989年-1996年 薬害エイズ訴訟

1980年~1985年の時期に、血友病患者に対して米国より輸入された凝固因子製剤が投与され、約5000人の血友病患者の内1500人近くがHIVに感染、現在までに700名以上が死亡した。1989年に東京と大阪で国と製薬会社を相手取って薬害エイズの責任を問う裁判が起こされた。その裁判では、

・HIV感染の可能性を知り得たにもかかわらず危険性を告知することなく非加熱製剤の使用を続けたこと
・HIVを不活化した加熱製剤の導入が遅れたこと
・加熱製剤認可後も非加熱製剤を回収しなかったことでHIV感染が拡大したこと
などの責任を問うものであった。

1996年、国と製薬会社は責任を認めて和解が成立し、国は被害者救済のための恒久対策を実現することを約束、エイズ診療拠点病院の整備などにつながった。

(次号に続く)


※2022年9月発行「Charming Times No.22」の「CHARM設立20周年「私とHIV」」より抜粋
https://www.charmjapan.com/charmingtimes/charming-times-no-22/