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【ふるさと・京都:乙訓地区初歩き】久我畷という古道を歩く

2024年最初の街歩きは、帰省先の京都市伏見区西部にある、「久我畷(こがなわて)」という名前の古道の散策です。久我畷という道のことを知っている人は、実は地元の人でもあまりいないかもしれません。なぜなら、現代ではほぼ、街道としての機能を失っているから、です。といいつつ、今もこの道の痕跡は断片的ながら残っているのです。今回はこの道を辿ってみましたので探索したいと思います。

■久我畷とは?

久我畷は、都から中国地方を結ぶ古道である、「山陽道」の一部となっていました。こちらのサイトに細かい解説はありますが、平安京の羅生門からまっすぐ南に向かう「鳥羽の作道」の先に、桂川を渡り、南西方向にまっすぐ西国を目指すルートとして作られたようです。

但し、この道の通っているエリアは、低湿地が多く、馬を通すのも困難なくらいの軟弱地盤だったようで、山崎から分岐し、比較的地盤の良い、長岡、向日町を経由する「西国街道」が作られ、次第にそちらが表の街道として栄えることになりました。久我畷は「忘れられた古道」のようになりましたが、しっかり一部がそのルートを残しているのです。

■今昔マップで、久我畷を眺めてみる

今昔マップで、「久我畷」を眺めてみましょう。桂川付近から、南西方向にまっすぐ伸びている道のようなものが見えてくると思います。一部は集落の真ん中の道ですが、一部はあぜ道や用水路のルートにしかなっていなさそうです。

久我畷は、桂川の右岸の低地にまっすぐつながる古道。

その道は、まっすぐ南西を貫き、東海道本線近くの「西国街道」に合流します。恐らく元々は、この道こそが、「旧山陽道」であったと思われるのです。

よく見ると、大山崎辺りまでまっすぐな点線の道が繋がります。

では、その道を訪ねましょう。実は、この道の途中の、京都市伏見区羽束師地区が、自身の帰省先であり、母校がある場所なので、そこを起点に最初は南を目指し、その後北を目指すこととします。

■久我畷を行く前に、羽束師神社を訪ねる

久我畷を訪ねる前に、この地にある、「羽束師神社」を訪ねます。

羽束師神社。この地域の寺社仏閣は、
実はとても古い歴史を有するものばかりです。
初詣の参拝者で賑わう境内。

この神社の敷地の片隅に、こんな石碑があるので、それが要チェックなのです。

敷地の片隅に建つ、「治水竣功之碑」
低湿地で水はけの悪かった土地に、江戸後期に「羽束師川」という排水路を構築し、
土地改良を行ったという記念碑です。
同じく建立されている、説明板。
この地の繁栄は、軟弱地盤と排水との闘いだったようです。
「東 横大路くさつ 伏見みち」「南 川西 山崎 柳谷 道」
南は、久我畷を通る道のりのようです。

久我畷が衰退していった理由は、水はけの悪さだったようですが、羽束師の人たちは、排水路を建設することで、その条件を克服するアプローチをしていたのですね。先人たちの土木事業に脱帽です。

■久我畷を南下する

写真に見えるのが、江戸時代に開削された羽束師川の流れをくむ、西羽束師川。
久我畷は、写真中央の、住宅の軒並みが途切れた場所をまっすぐ、です。
本当にまっすぐな小径が続いています。
まっすぐな道ですが、旧街道という感じは全くない、
農業・工業地帯の裏道といった風情です。
工場地帯の隙間に続くまっすぐな道。
新幹線の高架橋と工場敷地に行く手を阻まれます。
が、その先も続くまっすぐな小径。
おお、すごいと思えてきました。
長岡京市のスポーツセンターがある場所で、行く先を阻まれます。
その先も、大きな工場の敷地で痕跡が無くなり、
国道171号と名神高速道路によっても、完全に分断されています。

さすがに使われなくなった古道の地割なので、新しく区画整理されて工場等の敷地ができた場所や、高速道路や国道、新幹線などができた場所は、既にこの地割が消された部分も多いです。だからこそ、今も断片的に残る地割が、とても大事だと思うのです。

そして、名神高速の西側の住宅の合間に忽然と現れる、斜めの古い小径。
斜めに進んで、立ちはだかるのは・・、
小畑川という、大きな川です。
河川改修によっても、久我畷は分断されているようです。
川を渡った先に見える、斜めの道路と住宅。
そして今度は、再び名神高速が交差します。
その名神高速に見えたのは、「大山崎バスストップ」の文字。
これはちょっとだけ、寄り道です(笑)。
昔の官道と交差する、現代の高規格官道。
しかも大山崎JCTの真っただ中にあるバス停です。
久我畷のルート上にある、ジャンクション内を貫通するアンダーパス。
まあ、クランクするのは仕方ないとしましょう。
アンダーパスを抜けた先の様子。

大山崎JCTは、名神高速道路ができた後で、京滋バイパスと京都第二外環状道路ができ、さらに一般道も通り、インターチェンジもできるという、ものすごく大きな交通結節点です。この建設途中にも、久我畷に関係する遺跡が発掘されたようで、その説明板を見つけました。

下植野南遺跡の説明板。
やはり、まっすぐな古道の遺構が発掘されているようです。
少し進むと、小泉川を渡る橋が架かっていて、その先で・・、
西国街道と合流します。その合流地点には、
こんな記念碑が。
久我畷と西国街道の分かれ道に建つ、説明板。
このお地蔵さんが、道標代わりだったようです。

久我畷、断片的に残る痕跡を見つけると、心が躍る、そんな道中でした。

■久我畷、今度は北上してみる

今度は、羽束師から北上し、久我橋を目指したいと思います。

外環状線の菱川交差点から、北に伸びるバス道路が
久我畷の痕跡です。

この区間の道路は、自身の小中学校時代にいつも通っていた、「地元のメインストリート」のような道です。何だかまっすぐ続く不思議な道だな、という感覚は昔から持っていたのですが、まさかこんな昔からの古道だったなんて・・という感じです。

まっすぐ続いていくバス道路。
久我の集落の中に入ると、少し蛇行する久我畷跡。
用水路が道路の下を通っているようです。
こういう水路の存在が、道路を蛇行させる一因のような感じがします。
メインのバス通りは少し左にそれていきますが、
まっすぐ続く街路が残っています。
この道こそが、久我畷っぽいですが、
どうやら街道としての機能は、左のバス道路に譲ったようです。
少し進むと、行き止まりになってしまいます。
その先には、桂川の堤防に上るスロープ道路が。
桂川の堤防に出ました。
平安時代は、桂川の流路がちょっと違ったのですかね?
桂川を渡る、久我橋。渡った先には、「鳥羽の作道」の延長線にある、
千本通が走っています。

■終わりに

こんな感じで、大山崎から桂川までを一直線で結んでいた、「久我畷」。古代から、官道として機能していたようですが、水はけの悪い低湿地なので、馬を通すのには適さず、次第に衰退していったものと思われます。そんな低湿地も、羽束師川の開削という土木事業により、農耕に適した土地に改良された歴史があるようです。そんなふるさとのことを改めて勉強することができた街歩きでした。


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