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言語化されると解決しなくてもスッキリはするという効用

生きているとなんだかんだ言っていろいろな経験をする。

もやもやーとしたり、ちょっとイラッとしたり、
なんだか警戒心を抱いたり、
そういうよくわからないけどネガティブになる事象って多々ある。

なんとなく、方向性や系統、体系があるように自分では感じているけれど、説明が難しい、
ニュアンスを間違えると著しく誤解されそうで表現に悩む事象。

こういうのは、
実は自分だけではなく世界中の多くの人が同じようにモヤモヤを抱えていて、社会学者や心理学者なんかによって事例の研究がされ、
この一連のモヤモヤ事象に名前がついて定義されていることがけっこうある。
ある日何かのきっかけでその概念を表す名称に遭遇するのだが、
その瞬間頭の中が突如電撃的にクリアになる。
やっぱりこれは名前がつくほどの事象なのだ!ってどこか安心する自分もいたりする。

例えば、もうすっかり世の中に定着した『マウンティング』という言葉。
私がこの言葉を知ったのは10年くらい前なのだが、
これを知ったときにはやっぱり電撃が走った。
表立ってけなされていない、なんならむしろ褒められているはずなのに、なんだか嬉しくないどころか
メンタルが削られていく会話が
『マウンティング』と定義されて
モヤモヤを払いズバッと形を露わにした瞬間だ。

ああ、私が今まで心に抱えていたなんだか捉えどころのなかったモンスターが、はっきりと見えた…
相変わらず倒し方はわからないが、正体がわかっただけでも随分とスッキリしたものだ。

旅行は好きだが、旅行の話をするのは苦手
旅好きが集まるとなんだか会話がピリピリして
緊張感が高まる感じがするのだが、気のせいだろうか
我こそは真の旅好き、という思いが見え隠れするような


他にも
エコーチェンバー現象、ダニングクルーガー効果、スポーツウォッシング、などなど、
やっぱりこれって事象として名前がつくほどきちんと世に存在するものたったのだと腹落ちした言葉は枚挙に暇がない。

そして目下、私は、
『嘘はついていないが、すべての事実もはっきりと伝えない微妙なラインの巧みな言葉遣いあるいは映像の切り取りで相手に自分の実力を過大評価させ、虚像を作り上げること』を表したよい言葉がないだろうかと悩んでいる。

SNS全盛のこの時代、誰もが自分を発信できる。

セルフブランディングはある面ではとても大事だ。
昔ならどこかにコネがなければ誰からも注目されることも発掘されることもなく埋もれていった才能を、
自分から簡単に世界に出すことができる。
仕事につながるかもしれない。
世界が変わるかもかもしれない。
大きなチャンスがあるかもしれない。

一方で、そんな、夢のある一握りの人たちよりもずっと多く目にするのは、いわゆる『盛る』人たちだ。
この盛り方が、完全な嘘なら、それは詐称だ捏造だとはっきり追求できる。
モヤモヤするのは、盛るときに絶妙に相手に誤解を招くような表現で伝えて、本人的にはギリギリ嘘はついてなくて相手が勝手に誤った解釈しただけ、みたいな盛り方だ。

例えば、先日私は某SNSでバックカントリーをしたことを投稿したのだが、
そこにある人からこのようなコメントがついた。

立山、いいよ!

何も知らない人がこのコメントを見たら、どう思うだろう。

大半の人が、このコメントをした人は山スキーをやっていて、立山で滑ったことがあり、その経験をもとに私におすすめしてくれているのだ、
山スキー経験がそれなりにある人だ、と思うのではないだろうか。

ところが、私の知る限りこの方は立山で滑った経験どころかバックカントリーそのものをしたことがない。

私はこのコメントに驚愕し、困惑した。
どういう意図でこのようなコメントをしたのか。
『立山、いいらしいよ』とか、『立山、バックカントリーの人よく見るよ』とか、『立山のスキー、行ってみたい』とかなら、私もコメントに返すのは容易であったが、
なにゆえこの人はさも行ったことがあるような語感で私にコメントしたのか理解できず、
私もこの人を山スキーのアドバイザーとして扱った返事をしたほうがいいのか、悩んで返答に窮してしまった。
『行ったことないやんけ!』と突っ込めるほどの仲でもない。

ここでポイントなのは、『立山、いいよ』は嘘ではないことである。
バックカントリーで行ったことはないけれど、立山はバックカントリーの聖地のようなところであり、実際、立山はよいのだと思う。
また、この人は『立山で滑ってよかった』とは言ってない。つまり、自分が滑った経験については言及していないのである。
経験がないのに経験者のようにアドバイス的なコメントをされて、こちらはただひたすらに困惑した。
その人と直接的に見知っていない人は、たぶんこの人は山スキーヤーだと思っただろう。
『誤解』の名の下に虚像が出来上がった。

でも世の中にはこんなことはよくあることなのだと思う。
SNSの世界では(個人的には特にTwitter)、こういう手法で、SNS上での評価が過大になっている人ってちょいちょい見かける。

挑戦したいことについては声高に伝えるが、
実行はしていないし、その点については触れない、なんてまさに典型だ。
実現可能なレベルとして目標を掲げているような体で出してくるので、この人はそれ相応のレベルにある人なのだ、と見えてしまいがちだが、実際は到底及ばない。

あるいは、すごいのは周りの人間でその人自身は参加して引っ張ってってもらっただけなのに、
まるで主体的に先陣で取り組んだかのように報告する、なんてのもある。

本人を知っている身からすると、心配になってくる。
そんなことしていたら自分を追い詰めてしまうのではないかと。

虚栄心は私にもあるから、
自分を実際よりも大きく見せてしまうような言動をついしてしまう気持ちはわからなくもない。
身の丈に合ってないな、というようなことを、ちょっと無理してやってみることも。

ただ、そういったことを重ねすぎて、もはやその虚像が日常に棲み着き後戻りできなくなっているんじゃないか、というレベルの人もぼちぼちと見かける。

こういう盛り方って、何か名前がついていたりしないだろうか。
マウンティング!みたいに、パッと指摘できる単語があれば、
さしあたってこのモヤモヤ、多少晴れる気がする今日この頃である。
いつかそういう場面に出くわしたときに、その単語で軽く突っ込んでいなしたい。

スヤーと寝て食べて遊んで可愛がられる毎日
理想だ


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