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『マルモのおきて』と家族

マルモのおきてを昼間に再放送している関係で、
Tverでもマルモのおきてが見られるようになった。

『マルモのおきて』はフジテレビ系列で2011年4月〜6月に放送された連続テレビドラマだ。
折しも東日本大震災発災直後だった。

未曾有の大災害。
私は東北在住ではなかったので直接的に大きな被害を受けることはなかったし、東北に身近な人もいなかったが、
毎日流れてくるこの世のものとは思えない映像やニュース、増え続ける犠牲者、関東でも続く余震にすっかり参ってしまっていた頃だった。

マルモのおきては、家族の話だ。
主人公の高木護の親友が病気でなくなり、その親友の子供の双子が身寄りがなくなってしまう。親戚に引き取られることになるが、ふたりとも一緒に引き取るのは難しく、ひとりずつ別々の親戚に引き取られ双子が離れ離れになってしまうところを、
勢いで血の繋がりのない高木護(通称マルモ)が双子いっぺんに預かることになることから始まる。

あの頃は本当に打ちひしがれていたということもあるのか、
双子の屈託のない笑顔、マルモの葛藤、それを見守る温かい大人たちの眼差しに毎回毎回涙涙でドラマを見て、ある種の救いだった。

12年の時を経て、またこのドラマを見る機会がこうして得られたのだが、
あの頃とはまた違う思いが胸に去来し、やはり感動している。

このドラマでは血の繋がりがないのに親代わりとなるマルモと、
それを支えて温かく見守る大人たちが溢れている。
子育てなんて全く縁のないマルモが、子供と接する姿は、血のつながりのないことなど家族として暮らして行くに当たって些細なことなのだと思わせる。

ときに双子を、かわいそうな子たちなんだから優しくしてあげよう、なんていう憐憫で包もうとする大人も現れるわけだけど、
そんな大人をたしなめ、子どもたちにまっすぐ、しっかりぶつかって接していく大人たちがいる。

どんな形であれ、子どもたちに真剣に、一生懸命向き合う大人がいることが
子どもたちが育っていくことに一番大事なんだと考えさせられてしまった。

他人だった男女が結ばれ、子どもが生まれ父と母となり、家族として人生をともに歩む。
それは喜びであり幸せだ。
だが、それ以外の形を不幸と決めつける必要はかけらもないのだと思う。

色々な形があって、どれも間違いでも唯一の正解でもない。

家族の形、子育ての形にも多様性があっていい、そう思う。
『可哀想な子』を勝手に作り上げるおとなになってはいけないな。
幸せを積み上げる方法を考えるのが最優先なんだ。
そんなことを考えながら、ドラマを見て、
また、涙してしまうのであった。

それにしてもまなちゃんも福くんも可愛すぎ。
こんな双子がいたらマルモこと阿部サダヲがぶっきらぼうながら全力になってしまうのもわかるなあ。

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