東京タワー

夕暮れの渋谷。
公園通りの坂を下っていると、微かにポケットのスマホが動いた。ふと、立ち止まる。
この時間にいつも連絡をくれるのは…古田さんだ。

はじめて喫茶店シャノワールで話し込んで以来、古田さんは毎日LINEをくれるようになった。内容は、今日のランチとか、日帰り出張で乗った新幹線とか、他愛もない話ばかりだ。
短いやりとり。
でも、私の中では、一番楽しみな時間だった。
LINEを開く。
「今日、シャノワールで待ってます。」
短い文章は、私の心臓をキュッとさせた。今日、古田さんに逢える…。
私は下り坂を小走りで駆け下り、駅の方向へ向かった。

「栄枝さん、こっち。」
シャノワールの前で、古田さんが手を振っていた。思わず頬が緩む。
「すみません、お待たせしてしまって。」
「そんなに待ってないよ。」
眼鏡の奥で、古田さんはニッと笑ってみせた。「じゃ、行こうか。」
「えっ。行くってどちらに…?」
「東京タワーかな。」

電車は通勤客で混んでいた。
古田さんは私を庇うように前に立った。顔が、近い。顔の赤みを悟られまいと、私は下を向いた。
「東京タワーのライトアップを見てみたい」
私が、あの日シャノワールで話していた事だった。古田さんは微笑みながらそれを聞いて…でも、移動のことなんて考えていなかった。
駅に着き、人が雪崩のように降りて行く。
流されそうになる私に、古田さんは手を伸ばした。…手を、握った。男性にしては繊細な手。

着いたのは、浜松町。増上寺の先に、灯りのついた東京タワーが見えた。
「ライトアップを眺めるなら、少し離れてた方が良いってね。」
そう言って、古田さんはベンチに腰を下ろした。私も隣に座る。
「あのね、栄枝さん…ひとつ頼みがあるんだ。」
東京タワーを見つめながら、古田さんがつぶやいた。「頼みって、何ですか?」
「うん、実はね。敬語、やめてほしいんだ。」
「えっ…。」
「あと、名前で呼びたい。「まき」って。」
ドクンと、心臓が一際強く動いた。そんな風に、呼んでくれるんだ。
「良いです…良いよ。」声が掠れる。

夕闇を切り取るように、東京タワーは遠くで光っていた。

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