健太フーズの日々8

それから一カ月くらいは「何もない」日々が続いた。
実際にはヘマして怒られたり、新メニューが出てきたり、忙しかったのだが、記憶に残るような出来事はなかったので「何もない」としておく。

その日も「何もない」はずだった。

仕事が終わり、着替えを済ませて更衣室を出ると、あの子がいた。
岡崎ハルコさん。彼女は白いワンピースを着て、大きな重そうな手提げを持って、やや不安げに休憩室を覗いていた。
「こんにちは」私が声をかけると、「こんにちは」と少し笑った。
「オリエンテーションで一緒だった子ね。私、Cクルーの吉田です。どうぞよろしく。」
「岡崎です。よろしくお願いします。」

「岡崎さん、いらっしゃい。吉田さん、お疲れ。」
店長が事務所から叫ぶと、ハルコさんは軽く会釈をして事務所へスタスタと向かっていった。
へーぇ。やっぱりお嬢様って感じね。
その時、ふと、彼女からベルガモットの匂いがした気がした。
(あれ、この匂い…。)


「でね、やっぱりここの病院で焚いてるアロマの匂いがしたんですよぉ。」
久々の精神科の診察で、私はお医者さんにハルコさんの話をすると、お医者さんは楽しそうに頷いた。
「ベルガモットは、そんなに珍しいアロマではないからねぇ。偶然じゃないの?」
「偶然かぁ。でも、気になったんですよねー。」
「その子と仲良くなれると良いね。」
お医者さんはパソコンをカタカタ鳴らしながら私の顔を一瞬見た。
「まあ、元気そうで安心したよ。これからも無理のない範囲で働くように。週3日くらいがちょうどいいかもね。」
(ハルコさん。多分、私のお腹で亡くなってしまったチャコが無事に育っていたら、あんな感じの娘になっていただろうな…。)
そんな事をぼんやり考えていると、「仲良くっていっても、距離感は大切よ。」と声が頭から降ってきた。お医者さんがいつの間にか立ち上がっていたのだ。
「分かってますよぉ。私だってほぼ初対面の子にズカズカ踏み込むほど無神経じゃないですって!」
私は慌てて荷物を持って診察室の椅子から立ち上がった。
(そうだ。ハルコさんは赤の他人だった。)

帰り道、私はアロマのお店でベルガモットを買おうとして…やめた。代わりに買ったのはラベンダーだった。

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