喫茶店シャノワール

シャノワールの扉を開けると、カランコロンと鈴が鳴った。昔ながらの、小さな喫茶店。シャンソンが流れていて、少し無愛想なマスターが「いらっしゃい」と小声で呟く。
「栄枝さん!こっち。」
男性にしては甲高い声の方向を見ると、古田さんが手を振っていた。

「来てくれないかと思いながら、待ってたんだ。」
古田さんの向かいの席に座ると、彼はそんな事を言った。
「用事があると思ったので…」と、メニューに目を遣りながら私が呟くと、あはは、と愉快そうに笑う。「用事なんかないよ。ただ、栄枝さんと話をしたかったんだ。」
えっ、と、視線を上げると、古田さんがこちらをじっと見つめていた。いつもの、少し熱のこもった視線。「迷惑だった?」
そんな訳ない。私は小さく首を振った。
よかった、と彼は笑った。そんな彼は、会社で見るよりも若々しく感じられた。

コーヒーが運ばれると、他愛もない話が続いた。
渋谷区役所が建て替わる話。ディズニーランドのプーさんの乗り物が案外怖い話。ダイエットをしようとしてボクシングジムに通ったけど、練習がキツくてすぐに辞めてしまった話。
そして…沖縄に異動になった時に、婚約が破談になってしまった話。それ以来、東京に戻ってからも独身を通している話。

「栄枝さん、こっち、見て。」
ふと、古田さんが言った。
恐る恐る視線を上げると、真顔になった彼がじっとこちらわ見つめていた。「ちゃんと、目を見て。」
眼鏡の奥の黒い瞳が、私を射抜く。
「これからも、こうして話がしたい。無理にとは言わないけど…栄枝さんの笑った顔が見たいんだ。

私は、こくりと頷いた。
手元のコーヒーはすっかりぬるくなっていた。


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