福岡

ここのところ、サトシが浮かない顔をしている事が増えた。

明け方、うっすら目を開けて隣に寝ているサトシを見ると、彼は眼鏡もかけずに空中を睨んでいる。
「サトシ」と私は声をかけてみた。
あぁ、とサトシは微笑みを浮かべ「起こしちゃったね、ごめん。」と呟いた。
「何かあったの?」
「ううん、何もないよ。ただ、寝付けなかっただけ。」
サトシは手を伸ばして、私の髪を撫でる。ふわっと、やさしい匂いがした。サトシの肌の匂い。私が…大好きな、匂い。
私はピッタリと彼に身体を寄せた。
「ギュッてして」
サトシの両腕が私の背中へ回る。「心配させて、ごめんね。」

それから、彼の口から本当の事が話されたのは、だいぶ後だった。

「実は、福岡に転勤になるんだ。」
その日も、私たちは喫茶店シャノワールの一角で向かい合わせに座っていた。
私は「えっ」と声を漏らして、サトシを見つめた。あの日と同じ、難しい表情をしていた。
「部長から話があってね…4月1日付で福岡支店に配属になるらしい。」
心臓が早鐘を打つように動いた。
福岡。
行ったことすらないその地名は、私の頭の中をぐるぐると動いた。
「まき」と呼ばれて、ハッとサトシを見た。眼鏡の奥の黒い瞳が、私を射抜くようにみつめている。
「まきにも、付いてきてほしい。」
私は、どうしたらいいか分からなかった。
「返事は、今すぐでなくてもいい。でも、考えておいて。俺は…出来ればついてきてほしいんだ。ずっと一緒にいたい…。」

外に出ると、2月の冷たい風が私の頬を叩く。
渋谷の町は相変わらず賑やかで、楽しそうな若者やカップルが縦横無尽に動き回っていた。
私は福岡という知らない土地の事を、ぼんやり考えていた。
仕事は?生活は?
埼玉の実家から遠く離れた福岡は、私にとっては異世界で、これからどうなってしまうのか見当もつかなかった。

その日、私はサトシと何を話してどう帰ったのか、あまり覚えていない。

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