恋愛

「栄枝さん」
私の名前が呼ばれて、ドキッとする。
男性にしては、少し高い声。
後ろを振り向くと、古田さんがこちらを覗き込んでいた。

古田さんは、多分30代後半くらい。若くして管理職になった、「やり手」の人だ。
「栄枝さん、この間のメールの件なんだけどね…」
丸メガネをずり上げながら、じっと私を見つめている。目のやり場に、正直困る。
「よろしくお願いしますね」
話が一通り終わると、古田さんは私の肩をそっと触り、その場を立ち去った。
顔が紅潮するのが、自分でも分かった。

いつの頃からか、古田さんは遠くから私を見ていることが増えていた。管理者として職員の様子を伺っているのか、それとも。
私には分からない事だし、考える必要のない事だ。私は管理職としての古田さんの仕事を尊敬しているけど、それ以上の話は何もない。

でも、何故か気になってしまう。
彼が元気に笑っていると安心するし、元気がない時は心配になる。雑談ができた時は嬉しくて、でも肩や髪の毛に触られると恥ずかしくて嫌で。
近づきたい。でも、怖い。

離席して要らない書類をシュレッダーにかけていると、ふわりと石鹸の匂いがした。心臓が音を鳴らす。
古田さんの、ワイシャツの匂い。
「今日、駅前のシャノワールでお茶して待ってます。来るまで、待ってます。」
少しトーンを落とした声で古田さんが後ろからつぶやいた。耳に、少しだけ息がかかる。

私は…古田さんの遠ざかる足音を、クラクラしながら聞き続けた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?