シャノワールにて

「…それで、栄枝さんはサトシくんについていくのですね。」
喫茶店シャノワールのマスターは、静かに口を開いた。
「はい…今までお世話になりました。」
「そうなんだ…寂しくなるな。」
「また、埼玉の実家に戻った時には、お邪魔させてください。」
すると、マスターは黙って首を振った。
「ここも、もうじき閉店するんですよ。」
「えっ!」
私は耳を疑った。シャノワールがなくなってしまうなんて。
「仕方ないね。渋谷の再開発で駅前の東急もなくなるし、区役所も宮下公園のあたりに仮庁舎を建設していて、この町はガラッと変わりますよ。」
呟くようにマスターは言う。
「マスターは、どうなさるんですか?」
「私は、渋谷から離れることは考えていませんね…この、変化し続ける町が大好きですから。また場所を変えてシャノワールを開店するかもね。」
私はマスターの淹れたコーヒーを一口飲んだ。黒くて、苦くて、わずかに酸味がある、忘れられない味。
「サトシくんを、よろしくお願いします。…あれはいい子なんだけど心が少しだけ弱くてね。昔沖縄に転勤が決まった時に年上の彼女に振られて、自暴自棄になってね。涼子ちゃんって言ったかな?」
「涼子、さん…?」
「そう。栄枝さんがこの間一緒に来た人だよ。涼子ちゃんは、沖縄の生活ではなく渋谷を選んだんだ。」
私は俄かに信じられなかった。涼子さんは暑苦しいくらいにプロポーズを喜んでくれていて。なぜそんな事をしたのだろう。
「サトシくんを不幸にしてしまって、後悔してるんだろうね。だから栄枝さんがプロポーズ受けた時は、大はしゃぎだったよ。」
「私、サトシを幸せにできると思いますか?」
「ああ、もちろん。」
マスターは呟くように続けた。
「福岡の暮らしが辛くなったら、いつでも帰ってきなさい。シャノワールは渋谷のどこかにきっとありますから。」

私は、涼子さんの事をしばらく考え続けていた。
元彼が結婚してしまうのを側で見ているのって、どんな気分なんだろうか…。

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