別に文章書くの得意なわけではない

マジです。
この3か月で70本くらいは文章書いてた気がするけどマジなんです。
俺は別に文章書くのが得意なわけじゃないんです。
現にこれを書くのだっていつものアップが必要ですしね。
文章書くの止めないと殺すって言われたらしぶしぶやめます。やめれます。嫌ですけど。
たぶん僕の適正量は2週間に1本くらいなんだと思ってます。
自分の中で手ごたえのあるというか、書いてよかったなと思える文章はそれくらいの程度でしかできません。

これです。
これを見て思い当たる節的なのがあったので。

この動画では言語思考者/視覚思考者という分け方がされていまが、じゃあ自分は言語思考者なのかと言われたときにそうじゃないことも多く思い当たるんですよね。

まず写真を取るのが好きです。関係あるのかな?

言語化が得意です。………と、自分では思ってました。でもそれはあたまにある物を無理やり言葉にしている訓練を積んできたからな気がしていて。
過去何回か言ったように、自分は高2の時にメモを取り始めてそれからずっと”思考”を”文字”にする訓練を積んできたってことなんです。
明らかに後天的に身についてるんですよね、これ。全く気付かなかったけど。

前noteの人とオフ会で話したときに「どうしてあんなに毎日投稿とかで一定品質のものを書けるんですか?」と聞いたら「普通に頭の中で整理されてるものを出してるだけだよ」って言われたのが衝撃だったのです。身近に文章について語れる人と会えて聞けたのは初めてだったので。
自分は書くことにすごく労力を使っています。書き溜めなんかできないくらに。自分が文章を書くこと、それ即ち即興であたまのあちこちに散らばってるパーツ(パーツが存在してないといけない)を拾い集めて作って出すってことをやらないといけないんですよね。なのでクオリティは、自慢じゃないですがばらばらです。

授業が受けられないんですよね。厳密に言うと「ただ話を聴くことができない。だからメモみたいに紙に文字を吐き出し続けないとオーバーフローを起こす」状態です。
もし自分が本当に言語で考えられるなら(教室の他の人たちみたいに)じっと座って話を聴けているはずです。
恐らくですが、自分は講義を聴くときに「聴いて頭に浮かんだ言葉を文字として出力し、それを目で見て再度構成する」みたいなことやってるんだと思います。そうでもしないと付いていけないんですよね。思考を文字で切って加工してますね、これね。
もしかしたら手書きの文字を図形的に処理してるのかも…??だとしたら速記はどうなんだろう?まぁ、あんまり言語思考者みたいな枠組みにとらわれ過ぎるのもよくないですが。

毎日投稿も、やめろって言われたらすぐにでもやめられます。無理矢理続けてるだけなので。だからエンジンがかかるまで時間かかるし書いた途中のものを投稿してしまって後で続きを書いたりしています。今日もそうなっちゃいました。

あとこれもオフ会の時に言われたすっごいおもしろい言葉があるんですが、「(CheeRuLeの文章は)言語化できないはずものが言語化されていておもしろい」って言われたんですよ。あとオンライン飲み会の時も別の人からそう言われました。なんか個人差とかではなくこいつはこういうところがおもしろい、みたいなコンセンサスが取れてるみたいです。共通認識が形成されてるらしいです。
自分はこれをずっと「自分は言語化が上手だ」という風に解釈してたんですよ。まぁ言語化とかいう言葉について疑う機会も急に降って来たりしたからそれもあるんですけどね。

要は「言語化ってなんだろう」「自分は言語化が得意だと思ってた(言われてた)けど、それって本当なのか?」など考えながら過ごしたりなどしておりましたと。

というわけで(散らかっちゃいましたけど)今回言いたいところまで来ましたね。たぶん”言語化”が上手い人はもっとわかりやすく、構造化された文章を書くはずなのでやっぱりなんか違う気がしますよね。

おそらく僕は「後天的に言語化能力をめっちゃ習得しただけ」の可能性があるってことです。

メモをはじめる→自分に当てはまる言葉を集め始める→それで自分の感情を表現→ほめられる→言語化が得意だと思うようになる

別に絵が上手いわけでもないんですけどね。下手です。微塵も書けません。
言語っていう筆をがんばって練習しただけなような気がするんですよね。
いったいどこへ向かえばいいのでしょうか。

これも言語化について言及したnoteです。自分は言語化を別の言葉に(ややこしいな)しようとしたときに考え付いたのが「解像度を上げる」だったんですけど。まぁそれも陳腐で手垢って言われちゃったんですけど!僕はその表現がとってもいいと思ってるんです。納得してるんですよ。解像度って世界の見え方じゃないですか。世界はフラクタル(これも陳腐ですか?)です。拡大率と情報量は関連しないんですよ。小さい虫眼鏡のセカイにも情報量、広い航空機のセカイでも情報量、星空の観測だって情報量なんですよ。解像度っていうのは知識のレンズです。細かく見るためにはそれを愉しむための知識がないといけない。それだけなんですけど。その知識の…知識の…あれ?これがどう言語化と繋がるんですかね?まだ考えてます。

さっきの初めの方に貼った動画、コメント欄がとってもおもしろいのです。
言語って情報の一次元。じゃあ二次元の情報は?つながりですか?色は?絵ですね。二次元の時間。ベクトル??ちょっと自分がこの分野を見るにはレンズが足りないようです。

関連しますけど、知識は物っていうのもここにつながります。知識は、分解能は急にある日現れるものじゃないって思ってるってことです。

言いたいことを片端から詰め込んでたらぐちゃぐちゃになりましたね。こんなところに引用してしまって申し訳がない。考えてたらとりあえずこの段階で”言語化”しないと、と思ってしまいました。言語なのか?このむっちゃっちゃ便利な言葉がつかえないと不便で仕方がないです。むしろ混乱したような。