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ペーパーバック

今日も帰りが遅くなった。


もう25時を過ぎているが、蝉が喧しい。

東京が夜でも明るいからだろうか。

「帰る直前になって無理言うか?普通…」

「だから結婚できねぇんだよ…」

愚痴が宛てなくこぼれた。

酒と暑さで、

ふらふらと歩く私の眼前に、

郊外で借りているマンションが近づいてくる。

無論、近づいているのは私なのだが。


(帰ったらすぐに寝よう…)

その瞬間、私の体は大きく傾いた。

路傍の石に躓いたらしい。

地面に肩から転んだ。

外傷はないが、足を少し捻ってしまった。

声をあげるほどではない痛みが走る。

誰にも見られたわけではない。

しかし、

(あぁ…どこかに逃げ出したい…)

そう思った。

足早にマンションのエントランスに入り、

自分の番号のポストを覗く。

もうすっかり日課になった。

いつもは不動産の広告くらいしか入っていないポストだが、

今日は奥の方に分厚いものが入っていた。

それは…

本だった。


何の梱包もされていないむき出しの文庫本

なんだこれ。美樹のか?

疑問と本を小脇に抱え、
エレベーターのボタンを押した。

廊下を進んで、鍵を回す。


「おかえりなさい、遅かったね。」


美樹はそう言うと私のカバンを持った。

「今日も疲れたよ…忙しくてさぁ…」

「そう…大変ね…」

「そういえば…この、お前の?」

「何それ?知らないけど。」

美樹のじゃないのか。

誰かが間違って入れたのだろうか。

にしても間違えるか?

表紙を見る。

これは確か…
最近映画化された本だ。

石田京子 『虚ろな等式』

駅前の本屋に平積みされていた。

確か不倫系のサスペンスだったっけか。

「最近、本読んでねぇなぁ…」
「昔はよく読んだんだが…」

よく見ると栞が挟まっている。

金属製でクローバーの形が模されているものだった

この手のものは「ブックマーカー」と呼ばれがちだ。

挟まっていたページでは主人公と思わしき男が女に問い詰められている。

(結構終盤だな…)

にしてもなんで栞が挟まっているんだろう。

この文庫本にはスピンと呼ばれる栞代わりの紐ついているのに。

「もうご飯食べる?」

美樹が言った。

「まぁ…先に風呂入るよ。」

私は本をテーブルに置き、

すぐにシャワーを浴びた。

今日の疲れを注ぎ流すように。

少し楽になったような気がする。

湯煙ですりガラスのようになっている鏡に

赤黒い痣が写っていることに気づいた。

先ほどのことを思い出す。

鏡を濡れた手で擦る。

「痣が残ったか…面倒だな…」

鏡の中の表情が曇る。

浴室から出た私は、体を拭き、

髪を乾かし、

首にタオルを巻いた。

テーブルの上には、質素だが晩飯が並んでいる。

正直、食べられれば味は問わない。

肉じゃがを口に運びながら、

私は美樹に聞いた。

「この本なんだろうな。」

目線を本にやる。

「さぁ…占部くんとかじゃないの?」

「占部が?」

「彼、あなたと一緒で本好きだったじゃない。」

「占部か…」

占部は高校の同級生だった男だ。

おとなしい男で、
いかにも趣味は読書ですといった風の。

部活こそ違ったが、私たちは本の趣味が合い、
よく本の貸し借りをしていた。

今でもたまに飲みに行く仲だ。

「まぁ…聞いてみるか。」

「明日にしたら?」

「あいつならまだ起きてるよ。」

「そう…」

「ちょっとかけてくる。」

本を持って廊下を歩く。

背中に美樹の視線を感じた。



 
 
 
 

私は自室で占部に電話をかける。


電話のプッシュ音が鳴り、コール音に切り替わる。

私は考えていた。

占部がこんなことするかな。

普通に電話でもしてきそうなもんだが…

占部じゃない気がする。

なんというか…性に合っていない。

そもそもこの文庫本に違和感が2点あった。

まず、あいつは単行本しか読まないのだ。

文庫本を読んでいるところが記憶にない。

確かこんなことを言っていた。

「本って文庫になるまで3年くらいかかるんだよ?」
「いつ死ぬかもわかんないのに文庫になるまで待ってらんないよ。」

口癖だったように思う。

私は占部から文庫を借りたことがない。

だから最初この本を見た時、
無意識に占部はではないなと思っていた。

もう一つの違和感はだ。

スピンのこともそうだが、
あいつは金属製のブックマーカーを嫌っていた節がある。

「ブックマーカー作ったやつは本のこと好きじゃないんだろうな」
「えっ…なんで?」
「だってさ…」

あいつは何て言ってたんだっけ。

思い出せない。

コール音が留守番電話サービスに切り替わる。


私は電話を切った。

てっきり夜型だと思っていたのにな。

携帯をベッドの上に置いた。

もう一度、文庫本を手に取る。

至って普通の本だ。

パラパラとめくって、

最後のページを見る。

初版は4年前、この本は第7版だった。

結構売れてるんだな。

映画になるくらいだしな。

本をベッドの上に置いた。

次に栞を抜き出して眺める。

上部のほうにクローバー型に穴が開いている。

アルミのような硬さで、
昔の定規を想起した。

傾けると光の筋が入る。

よく見ると、

栞の下底に番号が刻印されていた。

「●  9   8」

よく見ないとわからないくらい小さい文字だ。

最初の文字は潰れていて読めない。

私はこの数字に何かを感じた。

数字というより配置だが。

しかし思い出せない。

どこかで…

栞をベッドの縁に置き、考える。

ふと目に入った本棚を見て、気づく。
 
 
 
 
 
 
 
 

文庫本の整理番号ではないか?


文庫本の背表紙にある{平仮名-数字-数字}からなる整理番号。

小さすぎて潰れているように見えたが、

最初の文字はひらがなではないだろうか。

再度、栞を見てみる。そう見えなくもない。

…調べてみるか。

2つ目の数字は作者名、3つ目は作品の刊行順を表しているため、

最初のひらがなは不要だ。

早速パソコンを開き、出版社のサイトにアクセスする。

検索窓に「9  8」と打ち込む。

出版社ごとに整理番号は違うから何社か繰り返さなくては。

検索結果が出てくる。

一発目に当たった。
それは『虚ろな等式』と同じ出版社だった。

そして私にとって覚えのある本であった。
 
 
 
 
 
 

宮口肇『嘆きの情』

この本は高校時代、
占部に薦めてもらったことがあった。

読んではみたが、
昔ながらの独特の文体と
ある理由で私の好みではなかった。

確かこの本が刊行されたのは、私が生まれる前だ。

多分親も生まれてない頃。

占部が好きな作家のひとりで、
この作品でこの時代にしては、珍しい題材を取り扱っていた。






それは「同性愛」である。

時代柄、人気は出なかったが、
占部は好きな作品だと言っていた。

「昔からこういった反発はあったんだ」と。

そう言っていた。

高校生のくせに達観してるなと思った記憶がある。



そして思い出した。

占部がブックマーカーを嫌っていた理由。


そうだ確か…

占部はこう言っていた。

「ブックマーカー作ったやつは本のこと好きじゃないんだろうな」
「えっ…なんで?」
「だってさ…」

 
 
 
 
 
 

「挟んだ状態で少しでも本が曲がると、
 栞が固いからページにしわが入るんだよ。」

「それがなかなか消えなくてさ。」
「ページが傷つくのも嫌だけど、
 なにより一度ここで読むのを諦めた跡が残るんだ。」


「それが一番嫌だ。」

パソコンを開いているついでにクローバーについて調べてみる。

嫌っていたブックマーカーを使うくらいだ。

何か意味があるのかもしれない。

すると、クローバーの花言葉が出てきた。

花言葉は複数あるようだが、先頭には、 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「私を思って」


そう書いていた。

私はパソコンを閉じ、窓から外を見る。

蝉は相変わらず喧しい。

こんな夜に何故鳴くのだろうか。

何を思って鳴くのだろう。

さっきまでとは違う感情で、

私は蝉の嘆きを聞いていた。 
 
 
 

(…占部は)
 
 

突然、携帯が鳴る。


この着信音は占部だ。

急いで私は携帯を耳に当てた。
 
 
 
 
 
 
 
 

「もしもし、新井?どうしたの?」

「いや、用ってほどじゃないんだが…」

「…ん?やけに騒がしいな。今どこにいるんだ?」

「どこって…」


 
 
 
 
 
 
 

「イタリアだけど?」


「え?」


彼女と旅行で来てるんだよ。」
「好きな作家の聖地巡礼ツアーでね。2泊3日の弾丸さ。」

「さっきはごめんね、電話出られなくって。」
「で?話は?」

私は呆けていたが、すぐに戻ってきた。

そしてポストの中の文庫本について占部に話した。

「…お前じゃないのか?」

「いや知らないよ。4日前には日本にいなかったし。」

「じゃあ、誰が…?」

「わかんないけど、入れ間違いとかじゃない?」

「そうか…」

(私は何かを勘違いしている?)

(じゃあこの本はいったい誰の物なんだ?)

再び私の意識は旅に出る。

「なぁ?…聞こえてる?」

「あぁ…すまん。」

「それはそうとさ、新井。」



 

 
 
 
 
「はやく新井は美樹ちゃんと落ち着きなよ。
まだ籍入れてないんでしょ?」


「あぁ…そのうちな…」

その後、他愛のない話をして電話を切った。


眠れない私は洗面台で顔を洗う。 


最近、美樹はうるさくなった。

歳がどうとか、親がどうとか、子供がどうとか。

静かな女だと思っていたのに。

煩わしくて仕方がない。

顔から雫が落ちる。

拭くために、
首に巻いていたタオルを外した。

首筋にあの女のつけた痣が残っている。

終電の時間になって帰りたくないと言い出したあいつだ。

私はため息をついた。

(あぁ…どこかに逃げ出したい…)

濡れた顔を拭き、目を擦った。

鏡を見ると廊下に美樹が立っている。

声をかけようと思ったが…やめた。

美樹の目はどこか虚ろで、

クレヨンで塗りつぶしたような目だった。

今になって思い出した。

栞に刻印されていたあの数字。

あの番号は私たちが付き合った日付だ。

何で忘れていたんだろう。

いや、本当は気が付いていた。

気づかないふりをしていたんだろう。

さっき見たあのサイトに。

クローバーにはもう一つ花言葉があることも。

そのとき占部のあの言葉を思い出した。

「いつ死ぬかもわかんないのに文庫になるまで待ってらんないよ。」