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生き甲斐に大小は無い


普段、ラジオの投稿ばかりしている僕。
行き詰まると、決まって自転車で外を飛び出す。

近所でコーヒーの飲めるところ。
ゲーセン。
行きつけの中華屋。
夕日が差す河川敷。
ラブホ...は、しばらく行ってない。

...なんて、原稿に行き詰まった小説家のような
きっかけのように語っているが、室内でじっとして
いられない性分なだけである。

今日も今日とて片道30キロほどの移動。
休憩を除けば、移動時間は2時間。
なかなかの長尺だ。

最近は、学生の頃と同じくらいの距離を走るよう
になった。
自分でも驚くほど足がピンピンしているのを感じる。
頭がバカになったら間違いなく色んな人に迷惑を
かけそうな気はしている。
素直に喜べたモンではない。

そんな折、とある街の駐輪場で腰掛けに座っている
ご隠居と目があった。
というのも、僕が止めていた場所は、どうやら駐輪場
というよりは放置自転車の保管場所で、ご隠居は
そこの見張り役だった。

勝手に停めてしまったことを謝ると、カギだけ
かけといてくれれば別にいいよと返答をいただいた。

とてもハキハキとしていらっしゃる。
失礼ながらご年齢を尋ねてみたら、91らしい。

生まれてからずっとこの町で暮らしていて、毎日
街道を歩いて健康を維持している。
奥さんを10年くらい前に亡くし、畑仕事もできなく
なって、今は年金暮らしをしながら、自転車の見張り
をしている。

この見張りが、小さいことかもしれないが
自分の中で生き甲斐になっていると言っていた。

生き甲斐を通じて、社会と、人とつながる。
とても素晴らしいことだと思う。

世俗と切り離した生き方も勿論あるが、歳をとると
孤独が常に付きまとうものだ。
社会とのつながりは大事だと周りの人たちが力説
する意味が、ご隠居との会話の中で腑に落ちた。

そして、生き甲斐に大小は関係ないと思った。

生き甲斐があれば、人は前を向いていける。
毎日をなんとか生きていける。
生き甲斐とは、人生の道標ともいうべき光なのかも
しれない。

僕にも、そんな生き甲斐はあるだろうか。
飯を食い、クソをして寝るだけの毎日。
日々を惰性で生きている僕は、人生の中で生き甲斐
だと感じることができるものに出会えるのだろうか。

過去の自分に後ろ指をさされ、未来の自分に危惧
されるような生き方だけは避け、生き甲斐を見つける
ことから始めていきたいものである。

今頃、そんなことを思うって遅いかしら。

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