卯月紅葉

「廿二社廻り」から始まる構成は、曾根崎心中を彷彿とさせるが、こちらは片生きの心中に終わる。
まず、片生きの心中という表現があると知ったので使ってみたくなっただけである。
題に心中とないのに心中に向かう時点で察することができるわけだが、生き残った方のことを思うと堪らないな。

陥れられて信用を失った後、蔵に閉じ込められて脱出したために放火の疑いをかけられ、更には心中に及んで脇差しを落とす与兵衛、不運が続き過ぎではないか。

急所を知らなくて、おかめをも徒に苦しませるのは酷く情けないと思う。
口寄せで語られた、与兵衛か舅達と不仲で辛いという話も、与兵衛の不器用さを表しているのかもしれない。
そういう「上手くいかない」与兵衛だからこそ、心中するしかなくなるのだが、その心中に失敗して。ああ、救いがない。

与兵衛おかめは夫婦として結ばれており、家財を譲られることまで決まっていたのだから、心中などするはずはなかったのである。
発端はやはり与兵衛が騙されて、上記の譲渡の件の書かれた譲り状を奪取したことであり、そうさせた悪役は譲り状の中身を偽って伝えた伝三郎に違いない。

だが、物語としては、譲り状の問題が展開される前から、既にもう心中への空気が漂い出している与兵衛が家出していて、おかめがその心配をするというただそれだけで、事件は既に起きているという感覚になるのは何故だろう。
もっとも、近松世話物だからと思って読むせいでもあるのだが。

なお、おかめが観たという心中狂言は鳥辺山心中だそう。心中物が流行った時代の作品ということか。
今でいうと、例えば異世界に転生する物語が流行っています、というような感覚で、現実に起きた心中をモチーフにした作品が流行り、また心中も流行るというのは凄い時代だよな。
事実、心中物の影響で心中事件が起きた(増えた)のかは、よく考えなければいけないし、心中物の発表を禁止しても心中しなければならない事情がなくなるわけではない、というのは当然として、禁止までされないといけない心中とは何だ?と思う。表現規制だけではなく、行為自体を禁止したところで、そうした規則から逃れるための死なのではないかと考えると、間抜けな禁止令だが。
※幕府による禁止は卯月紅葉よりもう少し先の話のはず。心中全般についての考え事。

岩波文庫で過去に読んでいたため再読だった。少しは読み慣れたのか、スムーズに読めた。

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