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日本列島、地域ごとの壮大な歴史

「新世代第四紀」と聞いて、いつの時代を思い浮かべるだろうか。実は(他でもない)現在のことである。258万年前以降の時代区分だが、人類の登場に彩られた時代と言える。同じような(地質区分の)年代名で、有名な「白亜紀」や「ジュラ紀」が、ひとつ前の中生代になる。恐竜が活躍した時代だ。「カンブリア紀」もよく知られているが、こちらは古生代。生命が大爆発した時代である。

地質時代の区分|地球科学の基礎知識より(丁寧な解説がなされています)


「地質」で分けた時代区分とは、そこから発見される生物化石の様相から相対的に定めたものである。代表的な生物が大規模な絶滅をしてしまったことを見て、新しい時代(気候)に取って代わったことを意味する。一番新しい新生代でまだ1億年に至らない。中生代は約2億年。古生代は3億年続いている。

ちなみに、古生代に繁栄した三葉虫やフズリナが絶滅した後、爬虫類が登場して恐竜へと続く。これは古生代から中生代への移り変わりを象徴する出来事だ。そして、中生代と新生代の境では、その恐竜も絶滅。ついに哺乳類の繁栄が始まる。このように、時代区分を示すことになる化石を「示準化石」と呼ぶ。たまに眺める、中高生のための学習サイトは、大人になって見ても、非常に面白い教材だ。

中学受験のための「かるび勉強部屋」より


時代区分が変わることは、(たいていの場合)気候が大きく変わること(を意味する)。だからこそ生命の淘汰が進む。たとえば「新世代」で言えば、その前の温暖だった時代が終わり、地球が徐々に寒冷化している。北半球には広範囲に氷床が形成された。この氷床が、氷期・間氷期の繰り返される中で、拡大したり縮小したり。すると、海水の量(海水面の高さ)が変化する。たとえば氷期のど真ん中では、氷床が発達し、海岸線が沖に後退。陸地が広がり、大陸や島が陸続きになる。この具体例が日本にもある。

氷期の東京(の位置)は、温度が札幌並みに下がった。当然、植生にも影響を与え、(森の減った)山は崩れやすくなる。他方、雨量も減ってしまうので、河川の運搬力は低下し、砂礫は、河口ではなく、山の麓に溜まって(河床の高度を上げて)いく。ゆえに、平野全体としてきれいな扇状地ができるのは、この頃だ。

(氷期において)氷床はゆっくりと形成されるが、(間氷期の)融けるときの氷解スピードは速い。つまり海水面が遠のいていくときの変化はゆっくりだが、海岸線(海)が近づいてくるときの変化は速い。このような変化は、地層にしっかりと刻まれている。他方、陸上では、河川の流れも、緩やかになったり速くなったりし、地形の形成に変化を与える。地形を丹念に見ていくと、当時の気候の変化は、雄弁に語られているのだ。

ちなみに、僕の書いた地学シリーズは、過去に2本。いずれも、日本列島の独特な地質的特徴を中心に書いたものだ。


縄文海進と、変わる風景

さて、本稿でも日本に着目し、地域ごとに見ていこう。たとえば、海水面の低下が大きな影響を与えたのは、瀬戸内海である。水深60メートルの浅い海域が続く内海は、かつては陸地だった。2万年前、120メートルほど海水面が下がり、そこをナウマンゾウが行き交っていた。人類は彼らを追いかけて、大陸から渡ってきたと考えられている。

そんな氷期が終了し、温暖な気候になると、海水が各地に入り込んできた。8000年前には現在よりもさらに内陸側に、海岸線が動いている。その時代を「縄文海進」という。その頃、侵入した海水は瀬戸内海としてつながり、今につながる日本最大の内海が成立した。5000年前、海面高さはピークを迎える。大阪の平野部の大半は海に沈み、琵琶湖近くまで舟で進めたはずだ。なぜ、古代政権が内陸の奈良に拠点を構えたのか、それも地質的には明らかだ。奈良は、海岸部に近かったのだ。

同じような状況は、当時の最先端文化を担っていた東北も同じ。青森市の(現在の)海岸線から4キロメートル離れた小高い場所に「三内丸山遺跡」がある。今から5900年前に成立していた大規模集落は、(内陸部ではなく)海の傍だったはず。当時の人々はこの地で、ヒョウタンやマメ、クリなどを栽培していた。DNAのばらつきが小さく、原始的な「栽培」をしていたと判断された。また、この遺跡を有名にしたのは、6本の巨大な掘立柱の穴跡だろう。15メートルと推測された建造物は、何のためのものだったのか。

特別史跡 三内丸山遺跡|ニッポン旅マガジン

海岸線が内陸に及んでいた証拠は日本のいたるところに見られる。関東平野では、その大部分が海に沈み、埼玉県の北部など内陸部が(かつての海岸部として)貝塚を残している。当時の沿岸で住んでいた人々は、貝を食べ、捨てたゴミ箱を通して、気候の変化を伝えているのだ。

さて、その関東平野では特別面白い現象が生じている。中央部が沈降し、周辺部が隆起する「関東造盆地運動」だ。本来の盆地は(イメージとしては)山に囲まれた小さな凹みだったが、関東平野はまさに巨大な盆地のようなもの。そこが徐々に平野となり、日本最大の面積、しかも二番目に広い十勝平野の十倍にも及ぶようになった。今日、ここには、日本の人口の30%以上が暮らし、その総数はウクライナ一国の人口に匹敵する。

東京スリバチ学会が提案する「地形と水から発想する水都東京の復権」|LIFULL HOME'S PRESS

埼玉県の行田市はかなり内陸に位置するが、沈降する中心部にあたる。ここには、地下から古墳(酒巻古墳群)の跡が出土している。当時は高台に造ったはずだが、徐々に沈降し、数百年の体積物によって埋もれてしまった。地質学的にはわずか二千年足らずの遺跡でも、もはや見えるところに存在していないのだ。

付加体がもたらす巨大な山脈

関東平野の最大の特徴は、(繰り返しになるが)平野の縁が海岸部に沿って盛り上がっていることだ。原因はその海側にある。海洋プレートが大陸プレートに沈み込むとき、海底の堆積物を陸側に押し付けるからだ。これを「付加体」と呼ぶ。

絵で見る地球科学|産総研地質調査総合センター

これらの知見は、国の研究機関(産総研)が優れた論文を公開したり、イラストなどで教示してくれている。付加体は徐々に盛り上がり、その一部は山地を形成したりもしている。海洋プレートの沈み込み位置が、陸地に近かったため、付加体がはっきり見えるところに形成された。

この付加体の構造で象徴的なのは、東北を上下に走る山脈だ。ど真ん中には奥羽山脈が貫いている。その左右にも別の山脈が並行に走る。太平洋側から沈み込んだプレートの影響で、陸部にシワができ、山脈と低地が順番に続いているのだ。その低地を北に向かって走るのが、JRの東北本線である。

磐梯火山がつくられた舞台裏|磐梯山ジオパーク

関東に目を移すと、中央に低地が広がり、巨大な平野となっている。長らく、開拓の厄介なこの地は、徳川家康が移封してくるまでは、未開の湿地帯だった。昔、荒川と利根川、さらに多くの河川が合流して東京湾に注いでいたが、ひとたび雨が降れば、流域はすべて水浸しになった。

利根川東遷で生まれた関東平野|LIFULL HOME'S PRESS

他方、その西の武蔵野台地には河川がなく、常に水不足で、農業が困難だった。これを見た家康は、玉川上水を建設し干上がった台地に水を供給。同時に、水路を江戸まで伸ばした。そして、洪水の心配があったその江戸を守るため、利根川を銚子へと流れるように付け替え(利根川東遷にて)、水害のない町へと作り替えた。こうして、水に溺れていた平野部が、水を利用する大都会へと大変貌していく。

ちなみに、この江戸の西に位置する武蔵野台地は、関東ローム層が形成されている。全体的に赤っぽい色をしており、赤土は火山灰である。含まれる鉱物が尖っていることから、それは(川に運ばれてきたのではなく)富士山からの噴出物であることが分かっている。このローム層が堆積した時代は限られているが、その間、日本人は石器時代の遺跡を残している。

箱根と富士の山

さあ、関東を抜けるとは「天下の険」箱根である。伊豆半島から富士山に至るラインには、多数の火山があり、箱根はまさにその通り道だ。東京から東海道を通るとき、ここの山々はそそり立つ壁のようになっている。平安時代の「更級日記」には、この壁を迂回し、箱根山の北側、富士山との間に形成された「足柄路」を通るときの記述があり、「不気味」だったそうだ。

そうだ箱根峠、歩いてみよう!|有難屋マガジン

「天下の険」とは実際には、箱根山の南(箱根路)の急峻な坂を指す。小田原宿から三島宿まで八里(32km)の道は、「箱根八里」と称し、東海道第一の難所である。

箱根火山は老齢で、今でも活動を続けている。巨大なカルデラを形成し、芦ノ湖はその一部である。65万年前に活動を始めて、約6万年前には最大規模の噴火をしている。約3000年前、箱根火山の一部「神山」が山体崩壊し、今日の「大涌谷」になった。山はなくなったが、火道だけは残り、その蒸気で名物の「黒たまご」が作られている。

箱根火山からわずか25キロのところに、富士山がある。1707年(宝永噴火)から活動を止めている休火山だが、現代でも富士山の噴火は恐れられている。10万年前の古富士火山の活動から、1.7万年前に登場した新富士火山へと移行が見られ、現在の姿になった。縄文人が眺めた恐ろしい富士山の噴火は、2900年前の山体崩壊だろう。東側で始まった噴火は膨大な量の泥流をもたらす。「御殿場泥流」と命名され、足柄平野に30メートルもの堆積物(黒色砂礫層)を形成した。

富士山の生い立ちは?|富士山・河口湖 洞窟 観光スポット

ところで、富士山が高いのには理由がある。プレートの沈み込み(陸地側の盛り上がり)によって大きくなったわけではない。富士山の火山の噴出物が、10万年に渡って積み上がったからだ。また、なぜ、美しい円錐形をしているのか。それは、溶岩の粘り気が小さく、下方に流れたからだ。そして、周囲に他の山がない独立峰であることも、その美しさを際立てている。周囲のどの角度から見ても、崇高な姿だ。


日本列島の中央部には、富士山に並ぶ高さの山々がある。「日本のアルプス」と呼ばれているが、フィリピン海プレートの衝突を受け、南アルプスは今なお少しずつ隆起している。他方、北アルプスは氷河によって侵食されやすく、もともとの急峻な地形がさらに美しい谷や峰を形成させた。本来はそれぞれに飛騨山脈、赤石山脈、木曽山脈の名称があっても、外国人技師によって用いられたアルプスの呼称はたいそう気に入られた。よって、2002年には町の名称(南アルプス市)にもなっている。

日本にヒマラヤ級の山が出現!?|地質学者が予想する100万年後|YAMAP MAGAZINE


近畿は古代の都

舞台を近畿に移してみよう。近畿には三角帯と呼ばれる、敦賀を頂点とした「湖盆」がある。伊勢湾にかけての「東側」、古琵琶湖、そして大阪の「西側」の三つであ。いずれも小規模に独立した湖で、堆積域を形成している。以前の日本列島史でも取り上げた内容だ。

奈良や京都など、近畿は長らく、日本の都が置かれた場所だ。平安京以前、都は頻繁に移転されている。水の集まる一定の平坦地があり、盆地の周辺には山地もあったことで木材資源を得ることもできた。おそらく、木材を切り尽くした後、(資源が尽きたので)都を頻繁に変えていたのだろう。飛鳥京、難波京、藤原京、平城京、紫香楽宮、長岡京と遷都が繰り返され、平安京に至ってようやく落ち着いた。それにしても、なぜ奈良に最初の都が置かれ、京都にて落ち着いたのだろう。地質学的な回答は見つかっていない。強いて言うなら、日本の本州の中で、日本海と太平洋との距離が最も短いのは、敦賀ー大阪間(伊勢間)である。しかもその中間には琵琶湖があり、この一帯はまさに交通の要になりえる場所だった。豊かな都の絶対条件は、運輸の中心であることだから、この地理的要因が関係しているかもしれない。

古代宮都の変遷|系図・地図年表で学習する日本史重要事件


近畿圏で言えば(地質の科学を語るのに)、阪神・淡路大震災を避けることはできまい。「直下型」地震と呼ばれたのは、淡路島の北西岸に伸びる全長71キロの活断層が引き起こしたからだ。海溝型地震に比べて、その規模は小さいものの、都市の近郊で起こるため、(人間社会への)被害は甚大だ。そもそも断層は、硬い岩石にひずみが溜まり、岩石の摩擦抵抗を超えたときにズレを生じる。すなわち、「ひずみ」は浅いところに残りやすいのだ。これが、高温の地下深部になれば、岩石は軟化し、ひずみを溜めることはない。したがって、断層の震源はどうしても地表近くに位置してしまう。これが被害をさらに大きくするのだ。

この活断層は厄介だ。平野や盆地の傍には、たいてい断層ずれがあり、数千年に一回動くのが「活断層」である。過去の地震の爪痕を残し、さらにひずみが溜まっていれば、「活」と表現されている。いつ動いたのか、次にいつ動きえるのか。そんな調査が日本全土で始まっている。約2000箇所にもなる「活断層」・・・原発の立地調査では、厳重な調査がなされている。


西南日本の構造線

西南日本を見ると、太平洋側に多くの岬が突き出ている。御前崎、潮岬、室戸岬、足摺岬が150キロの間隔を空けて海側に伸びている。これはフィリピン海プレートの沈み込みが原因である。例によって、付加体を陸側に押し付けるのだが、これが盛り上がり「外縁隆起帯」を形成。その隆起する部分の間が少し沈降してしまう(前孤海盆を形成)ため、上記「間隔」が生じる。しかも、岬の方向がやや曲がっているように見えるのは、プレートがやや斜めに沈み込んでいるからだ。

プレートの沈み込みと並行して走っているのが「中央構造線」だ。その距離は、フォッサマグナから続き、九州の中央部まで東西に貫いている。明瞭なのは、四国北部で南北を分断している境界線だ。その南と北ではまったく異なる地層(境界面は断層)になっている。日本列島ができるはるか前から存在している、いわば「古傷」だ。古傷であるがゆえに、いつどのように痛むのかは地域によって様々である。

世界第一級の大断層「中央構造線」が走る”阿波池田”地域の地質|産総研

南海トラフは、この位置でのプレートの沈み込みを起点にしている。しかもひと区間で発生した地震は、隣接区間にも連動し、広範な大規模地震を引き起こしやすい。日本書紀に記載された「白凰地震」は684年のこと。その後、何度も地震を引き起こし、その間隔は100年前後とされる。ここから推計すると、「30年以内の地震確率が70~80%」という、何とも困惑するような数字が発表され、独り歩きしている。

地震調査委員会 「南海トラフの地震活動の長期評価(第二版)」 より引用
南海トラフ巨大地震、続発は1週間以内に最大77% 他の地域より起きやすく|産経新聞


九州は巨大火山が存在した

次は九州のお話。活火山で知られる九州では、火砕流の体積したシラス台地が広がっている。熊本や鹿児島の空港は、このシラスの平坦地を利用して建設された。シラスとは、ガラス質の砂の粒子である。シラスは空隙が多く、水を浸透させてしまうため、その侵食を受けにくい。したがって、平坦な地形が残りやすい。しかも後から堆積していき、もともと谷だった場所を埋めてしまっている。なお、シラス台地と、関東ローム層は似て非なるものだ。シラスは水はけがよすぎるのに対し、ロームは粘り気が強すぎて水を確保できない。両方とも稲作には向かない、とされる。

カルデラの話をしておこう。地下のマグマが放出されると、マグマ溜まりは空洞となり、上部の重みで潰れてしまうことがある。その(地表にできた)凹地で、直径が2キロ以上に及ぶものを「カルデラ」と呼ぶ。火山活動はプレート運動が起点となり、活発化したり、沈静化したりするのだが、特定の時期に集中して噴火し、カルデラを形成する段階から終盤に入る。南九州でかつて起こった巨大噴火は、当時の(そこにいた)縄文人を全滅させたのでは、と考えられている。

阿蘇カルデラ|地球のダイナミズムが生んだ絶景!|Honda Kids

九州には世界最大級のカルデラ火山がある。4回もの超巨大噴火によって成立した阿蘇山だ。陥落した(凹んだ)土地に水が溜まると、カルデラ湖になる。北海道の洞爺湖はその代表例だ。しかし、縄文人を全滅させた前述の火山は阿蘇山ではない。それは、鹿児島市から南へ100キロ下った海底にある鬼界カルデラである。日本で最後に起こった巨大噴火と言われ、今から7300年前のことだ。

巨大海底火山「鬼界カルデラ」の過去と現在|JAMSTEC BASE

鬼界カルデラの噴出物の総量は、火山灰の調査から相当なものだと分かっている。具体的には、20世紀最大級のフィリピン・ピナツボ山噴火の16倍以上にあたる。しかも海底火山であったことを考えると、それ以上だろう。心配されるのは、現在もなお、マグマが増え続けているのか否か、だ。フィリピン海プレートが沈み込み、高温高圧の環境下で大量の水が絞り出されている。それがマントルの岩石に加わると(融点を押し下げ)マグマが作られていく。かつて起こった巨大噴火がまた起こる可能性もあるだろう。

鬼界噴火がもたらした火山灰の土を「アカホヤ」と呼ぶ。この層より下から、南方海洋系の土器や石器が出土。他方、この上の層からは、北方系の縄文土器が出土。両者に、文化的な連続性は見られない、とされる。したがって、巨大噴火が当時の人々の生活を消滅させ、その後、新たな人々がやってきたことになる。

考古ガイダンス:鹿児島県上野原縄文の森


日本列島の誕生(復習)

最後のまとめとして、日本列島の成り立ちをまとめておこう。(他の稿でも触れたが)日本海が開裂し、大陸地殻の一部が東に押し出された。これが「逆くの字」形になって、弧状の日本列島を形成した。まさに、今日の姿である。300万年前になって、プレートからの圧縮が強まり、山地や平地・盆地などの地形を作っていく。これは、球形のピンポン玉の表面を凹ませたとき、その周囲にできる縁が円状(弧状)になるのと同じ原理だ。

東西日本の地質学的境界【第六話】日本海の拡大(※PDF)|GSJ地質ニュース

プレートが沈み込むと、付加体が陸側に押し付けられ、それが日本列島の大地になった。また、海洋プレートの沈み込み口から大量の水が地下に侵入。そして地下のマントルに供給される。ここでマグマが生まれることになった。これがのちに火山となる。日本列島はこの沈み込み面が非常に広く、火山が線状に並ぶ。同様に、その境界面ではひずみ・歪みが蓄積し、耐えきれなくなったとき、地震として解放される。そのときの力が、地層の弱い場所(断層域)に及ぶこともあり、活断層が動くことにもつながる。つまり、プレート沈み込みのひずみ、マグマだまり、火山、活断層などなど。日本には、そのような地形が無数にあり、我々の恐怖心を煽っている。

ユーラシア大陸の東の端に、これだけ複雑な地質ドラマが集中している箇所は、世界の他と比べても、なかなか類を探せないはずだ。しかもそこには、高度な文明があり、日々、探索・研究を行っている。この成果は、日本列島の歴史だけでなく、プレートテクトニクスに始まる、壮大な地球科学の一里塚であることを、あらためて強調しておきたい。


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