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真夏に生きなおす

 来たる8/4(日)、京都は恵文社一乗寺店にて『微花』×『つち式』合同でトークイベントを開催する。

「開かれてある世界に生きなおす」

 これがそのタイトルだ。この一節は、わたしがかつて『微花』に寄せた文章から採ったものである。
 その記事でわたしは、まさに微花は「開かれてある世界に生きなおす」きっかけを読者にもたらすものだ、と書いた。少なくともわたしにとっての微花は、自分が里山生活に向かう動機であったところの、「生きなおす」というある種の決意の根源を再確認させてくれるものとしてあった。

 さて先日、微花の石躍が、川上未映子の『夏物語』を起点として反出生主義に触れつつトークイベントへ向けた文章を書いてくれた。その一節を引く。

『微花』と『つち式』の成り立ちに共通してある存在への驚嘆、不思議、不可解という感情は、「果たして生むのか?」という問いへと繋がってくる。

 子供を生む/生まないについて立場をはっきりさせておくならば、わたしは生まないと決めている。しかしそれは、子供の生の苦痛をあらかじめ排除するため、というような理由からではない。
 尤も、川上未映子も述べるように、反出生主義にまつわる議論は十分に為されるべきだとも感じているが、ともかくわたし(つち式)としては、ここら辺のことを人間や倫理の話に限定したくはないのである。

 たとえば農耕は、人間間の恋愛よりも遥かに過激でドラマチックな異種との恋愛であり、互いの生存を懸けた文字どおりの癒着共生なのだが、その中には異種たちの出生が不可避に含まれる。ある意味わたしは、すでに幾度も生んでいるのである。
 出生が倫理にもとるかどうかはわからない。だが、わたしにとっては出生が善であれ悪であれどちらでもいい。あまり関係がない。わたしはマトモではなくクズであり、善い悪いなら悪いほうを選び、どれも悪いならより悪いほうを選ぶタチだが、もはやこれはいわゆる善悪の水準の話ではない。
 わたしが自分の人間の子供をつくらないと決めているのは、まずもってそれが自分の「遺伝子」に対するあからさまな裏切りであるからだ。そのうえ、自分の子供を差し置いて、ほなみちゃん(稲)やニック(鶏)たちとの爛れた関係の中で、彼らの子孫繁栄に肩入れするという二重の背信もある。
 尤も、世は人新世であるため、これは人間を増やさない一つの善行だと言うこともできるが、善といわれると窮屈で辛気臭くてかなわない。わたしはクズなのであって、あくまで「悪事」を為しつづけることが重要なだけである。

 この開かれてある世界に生きなおし、味わう術として、わたしは農耕を選んだ。そして農耕は、あまりに愉快な悪行であった。
 生まれたことは甚だ不可解であるものの、とにかくわたしは人間として生まれた。人間であるとは、強く自我を有しているということ、つまり〈自由〉でありうるということだ。
 悪行にさえ十全に開かれてあるこの世界を、この夏を、いまあらためて心から祝福したい。

 さて、石躍に応えてトークイベントを盛り上げる記事を書くつもりが、訳のわからない方向へ行ってしまった。縷々述べたが、要はトークイベントに来てください、ということです。よろしくおねがいします!

8/4(日) 18-20時
微花×つち式
「開かれてある世界に生きなおす」
http://www.cottage-keibunsha.com/events/20190804/

#微花 #つち式 #農耕

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