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かぐや姫の蝶々は怪異の象徴か、それとも女性問題か。反証可能性がないオタキングの古典由来説

1 かぐや姫の物語

 ジブリ映画『かぐや姫の物語』を見ました。私にはまだ見ていないジブリ作品がいくつかあって、『かぐや姫の物語』もそのうちの一つ。『紅の豚』や『風立ちぬ』もまだ見ておらず、「見るのを先延ばしにしよう」「楽しみはまだ取っておこう」と思っているうちに何年もたっています。それら「まだ見ていない楽しみ」の一つを今回、封切りしたことになります。

 『かぐや姫の物語』は面白い作品でした。CGではない手書きの絵が映えていましたし、「わらべ唄」の曲も耳に残るものでしたので。それからキャラクターに魅力を感じましたので。かぐや姫に言い寄る貴族たちに現実味があって、かつコミカルでした。翁のかぐや姫に対する稚拙な親心は、私自身の子どもに対する接し方を見ているようで反省を促されます。

 で、『かぐや姫の物語』を見ると同時に、この作品に対する評価もユーチューブで見ました。私のユーチューブには、アニメやマンガに対する批評動画がよく流れてきます。中には話し方が面白かったり知識豊富なユーチューバーがおり、そのような動画をよく見るのです。

2 オタキングの批評動画

 私が時々見るユーチューバーの中に「岡田斗司夫(おかだとしお)」という方がいます。岡田氏はオタキング(通称? 自称?)だそうで、配信する動画はアニメやマンガの批評。知識が豊富で、「〇〇監督はラジオのインタビューで〇〇と話していた」とか「絵コンテには〇〇と書かれている」などと知識豊富に語ります。私は「どうやって絵コンテとか入手しているのか」と不思議に思っていたところ、岡田氏はアニメ業界の方らしいのです。ウィキペディアで経歴を見ると「ガイナックス設立」とあり、これだけでも権威を感じます。「新世紀エヴァンゲリオン」の、あの「ガイナックス」です。

 岡田氏は『かぐや姫の物語』への批評も配信しており、私が見た批評動画とは、岡田氏の批評動画です。岡田氏は自身の動画の中で、
「『かぐや姫の物語』は女性問題を描いた作品ではない」
と主張します。どういうことか。

 岡田氏は自身のサロン内で『かぐや姫の物語』への感想を募ったらしく、その中で「現代の女性問題に通じる」という感想が多数あったことに目をつけます。それらの感想への反対意見として「これは女性問題を扱った作品ではない。女性問題は表層で、それに主題に置くとズレて作品を見てしまう」と主張するのです。
 岡田氏の主張を論理的に解釈すると、以下のようになります。

 「多くの人は『かぐや姫の物語』を見て、『この作品は女性問題を描いており、クズな男たちに言い寄られるかぐや姫は、女性の男性に対する弱い立場を表している』との感想をもつ。けれどそれは違う。なぜなら、男たちがクズなのではなく、彼らがかぐや姫の超能力にかかっているだけだから。
 かぐや姫には本人にも自覚のない超能力(急な成長、飛翔、透明化、演奏など)が備わっていて、この超能力に人類は逆らえない設定。周りの男たちを魅了するのも超能力の一つ。だから周りの男たちは判断が歪められ、言いよりたくなってしまう。男たちは、クズに見えるだけなのだ。その証拠に、5人の貴族たちがかぐや姫に言い寄るシーンでは蝶々が描かれていた。蝶々は、日本の古典によると怪しい現象が起こるサインである。ここから、かぐや姫の能力によって貴族たちが魔法にかかり、判断や行動が歪められたという仮説が立てられる。
 だから『かぐや姫の物語』は、女性問題を描いているのではない。」

 岡田氏のこの推測は、知識が豊富で面白い。この意見を語るときも、絵コンテを片手に「◯分◯秒から〇〇秒間……」「高畑作品は宮崎作品とは違って……」という感じで、アニメについて語り慣れている感じがしますし、彼が業界人である雰囲気が出ていました。「日本の古典では……」と、アニメ以外にも知識がふんだんなことが示唆されます。

 けれど彼の批評には、面白さと同時に不信感も感じます。これは、詐欺犯や交通違反者が自身の違反を弁明しようとして嘘やでまかせを言っているのと同じような、どこか信用できない臭い。「本当か?」という疑いが晴れない印象。一見まともそうだけど信頼の置けない説明です。この信頼の置けない感じは一体、どこから来るのでしょうか。

3 反証可能性とは何か

 哲学研究者の倉田剛氏は著書『論証の教室』の中で、「仮説の良さ」について述べています。仮説とは、観察された事実を説明する意見のこと。「仮説」というと堅苦しいですが、日常のなんでもない判断も仮説に含みます。例えば「彼女が遅れているのは、道路が混んでいるからだろう」とか「犯人が被害者に暴力を振るったのは、被害者の浮気が原因だろう」とか「恐竜の絶滅は隕石の落下によるものだろう」とか。これらの「判断」は何でもないものから堅苦しいものまで、すべて仮説です。

 「良い仮説」(good hypothesis)における「良さ」(goodness)とはどのように判定されるのでしょうか。私たちはこの根本的な問いに答える必要があります。
 以下では、仮説の「良さ」を評価するための、6つの代表的な基準を紹介することにします。それらの基準とは(1)説明力(esplanatori power)、(2)深さ(depth)、(3)一般性(generallity)、(4)反証可能性(falsifiability)、(5)単純性(simplicity)、(6)整合性(coherence)です。

倉田剛著「論証の教室」

 この中で興味を引くのは、(4)反証可能性という基準。というのも、この基準だけがわれわれの感覚に反するからです。他の5つの基準は感覚的に妥当なもの。(1)「説明力」とは「それと関連する多くの事実を説明する力」とありますし、(5)「単純性」とは「同じ事実を同程度に説明できるのであれば、単純な(simple)仮説の方が、複雑な仮説よりも良いとされます」とあり、「まあそうだろうな」と納得できます。ところが(4)反証可能性だけが一見、逆説的に思われるのです。「反証される可能性が、良い仮説の基準である」と言われて「反対されることが良い仮説なの? 逆じゃないの? どういうこと?」と思うのが、素直な意見だと思います。反証可能性とはどういう基準なのでしょうか。
 倉田氏は星占いを例えにして、次のように説明します。

 あなたは通勤途中に大切な指輪を落としてしまったと思い込み、それを職場の同僚に話したところ、星占いに凝っている同僚から「今日は、おとめ座のあなたに悪いことが起こっても不思議ではないわね」と言われました。彼女は、天体の運動(正確には、生まれた月日)があなたの身に起きることを決めているという仮説を信じています。しかし、実際にはあなたは指輪を着け忘れて家を出ただけであったことが判明しました。おまけにその日は仕事で新たな顧客を獲得したり、帰宅途中に立ち寄ったコンビニでくじに当たって景品がもらえたりと、いいことづくめでした。それを翌日同僚に伝えたところ、やはりそれを説明できると言い張ります。星占いによれば、「悪いことが起こりそうだったときに、それを避けることができれば良いことが起きる」とのことでした。
 しかし、この同僚の仮説は、どんな事象でも同じ仕方で説明できてしまいます。あなたの身に悪いことが起きようが、良いことが起きようが、いずれの場合も説明できてしまうのです。こうした仮説は空虚であり、実のところ何も説明していません。言い換えれば、良い仮説とは、何らかの仕方で―主に経験的に―テスト可能な(testable)ものであり、仮説に反するデータないし証拠が出てくれば、反証ないし不確証されるものでなければなりません。

倉田剛著「論証の教室」

 以上のように説明されると、私たちの周りにある仮説への、一見まともそうだけど信頼の置けない感じがどこからくるものなのか、わかってくると思います。

 例えば、日々の出来事の浮き沈みを「霊の仕業」と言われて信頼が置けないのは、反証可能性がないからです。スマホを電車に置き忘れた悪い出来事は「悪い例の仕業」として説明できるし、仕事が上司に評価された良い出来事は「良い霊の仕業」と、同じ「霊の仕業」として説明できるのです。どう転んでも「霊の仕業」と言い切れ、その仮説を本当にそうなのかどうか、チェック(検証)することができません。

 スポーツの成績を「体の調子のせい」と言われて浅薄な感じがするのは、反証可能性がないからです。例えばテニスをしていて、ボールをうまく返せれば「今日は体の調子が良い」と説明でき、その後でうまく返せなくなれば「体の調子が悪くなってきた」と、なんでも同じ「体の調子」で説明できます。これでは何とでも言えるので、反証可能性がないということです。

 政治学者の久米郁夫氏も自身の著書の中で、反証可能性のない仮説を「いつでも正しい最強の説明」と揶揄しています。

 心理学によると、人間の心は自我、イド、超自我の3つからなります。我々が意識する自我、無意識の欲求であるイド、道徳や社会規範による行動を強制する超自我。人が犯罪を犯せば「イドが意識を上回った」と説明できるし、模範的に行動すれば「超自我がイドを抑えている」と説明できます。倫理に反する行動も倫理的な行動も、同じように心理で説明でき、その心理の働きをチェック(検証)する手立てがありません。

 社会の現象を文化で論じる際にも反証可能性の問題は頭をもたげます。戦後、中国が近代化できずに日本が近代化できたのを「中国には儒教文化があったから」と言い、日本や韓国が高度経済成長を遂げるとこれも「これらの国には儒教文化があったから」と説明する説があるそうです。

 東アジアの国々の共通性を説明する際には文化の共通性が原因として語られ、それらの国々の違いが説明される際には文化の違いが強調される。
(中略)
 文化によって何でも説明されうるという意味で、反証可能性が欠如しているのである。

久米郁夫「原因を推論する 政治分析方法論のすゝめ」

4 古典由来説は反証できるか

 岡田斗司夫氏の説明も、反証可能性がないので聞いている方は納得しきれないのです。その主張をもう一度提示します。

 「多くの人は『かぐや姫の物語』を見て、『この作品は女性問題を描いており、クズな男たちに言い寄られるかぐや姫は、女性の男性に対する弱い立場を表している』との感想をもつ。けれどそれは違う。なぜなら、男たちがクズなのではなく、彼らがかぐや姫の超能力にかかっているだけだから。
 かぐや姫には本人にも自覚のない超能力(急な成長、飛翔、透明化、演奏など)が備わっていて、この超能力に人類は逆らえない設定。周りの男たちを魅了するのも超能力の一つ。だから周りの男たちは判断が歪められ、言いよりたくなってしまう。男たちは、クズに見えるだけなのだ。その証拠に、5人の貴族たちがかぐや姫に言い寄るシーンでは蝶々が描かれていた。蝶々は、日本の古典によると怪しい現象が起こるサインである。ここから、かぐや姫の能力によって貴族たちが魔法にかかり、判断や行動が歪められたという仮説が立てられる。
 だから『かぐや姫の物語』は、女性問題を描いているのではない。」

 私が「信頼が置けない」として気になるのは、蝶々を「怪しい現象が起こるサイン」と説明している部分です。ここの部分を岡田氏は、日本の古典文化を根拠に主張します。

 この蝶々っていうのが何かっていうと、日本の古典とかを詳しい人だったらわかるとおり、吾妻鏡に出てくるですね、怪しいもの、怪異が人を化かす時に出てくる象徴的な表現なんですね。中国の文学によれば、これは幻想の表現、夢幻のシーンなんですけども。吾妻鏡によると、これはこれからですね、何か怪しい現象が起こる、怪異が起こるサインなんですね。

岡田斗司夫「徹底解説『かぐや姫の物語』「罪と罰」鈴木敏夫の証言」

 いかがでしょうか。岡田氏は、日本の古典文化に精通しているようです。私は日本の古典文化に精通しているわけでもなく、吾妻鏡に詳しいわけでもありません。ですのでこの場合、私はいくらでも良いように岡田氏から言いくるめられるでしょう。日本の古典文化由来であることを理由にして。

 岡田氏からすれば相手の無知をいいことに、蝶々が出てくれば「日本の古典文化によると、蝶々は怪しい現象が起こるサインだ。蝶々が出ているということは、魔法がかけられていることを示唆している」と言えます。言われた方は、それが本当に日本の古典文化における怪異のサインとして蝶々があるかわかりませんし、それがこのシーンにおいて怪異の象徴として描かれているのかどうかもわかりません。たとえ本当に吾妻鏡に蝶々が出てきたとして、それが怪異の象徴なのかどうかも解釈次第でしょう。岡田氏のいうとおりに解釈できない者には、「それは君の読みがまだ甘いからわからないのだ」と詰め寄れます。古典由来説には反証できないのです。

 以上のように、かぐや姫の超能力を示す証拠としての「蝶々は、日本の古典文化によると怪しい現象が起こるサインである。」という説には反証可能性がなく、反証可能性がない故に信頼が置けない感が残るのです。

 岡田氏は、蝶々が怪異現象のサインである事を前提に、『かぐや姫の物語』は女性問題を描いているのではないと結論づけます。
「蝶々は、日本の古典によると怪しい現象が起こるサインである。ここから、かぐや姫の能力によって貴族たちが魔法にかかり、判断や行動が歪められたという仮説が立てられる。だから『かぐや姫の物語』は女性問題を描いているのではない。」
 が、前提「蝶々は、日本の古典によると怪しい現象が起こるサインである」は疑わしいので、結論「『かぐや姫の物語』は女性問題を描いているのではない」にも疑わしさが残ります。

 実際、この作品を女性問題と関連付けないで見ることは難しいでしょう。5人の貴族も帝も、無理にかぐや姫に言い寄っています。この「女性に無理に言い寄る男性」を、わかりやすく前面に描いておきながら「そこはポイントではない」と言ってしまっては、良い仮説の基準の(5)単純性にも欠けますし、(6)整合性にも欠けます。

 蝶々が飛ぶシーンについては、私は雅な雰囲気を演出するための表現だと思います。というのも、蝶々が飛んでいたシーンはかぐや姫が琴を演奏していた場面だからです。視聴者に琴の演奏を聞かせたいけれど、琴の演奏だけでは飽きてしまう。だから蝶々を飛ばせて動きを入れた。しかも蝶々が飛んでいる動きであれば、琴の演奏の雅な雰囲気を余計に演出してくれる。そんな算段であったのではないかと思うのです。もしも「蝶々が飛んだところで雅な雰囲気なんか感じないよ」「琴の演奏だけでも飽きないよ」という視聴者が多数いたら、この説は反証されます。
 岡田氏の主張は面白いのですが、論理性がないのです。



参考

 わかりやすく「説得力の出処」を学べます。どうすれば「なるほど」と腑に落ちる主張ができるのかを、優しい口調で語っています。本編でも書いたとおり、特に「良い仮説の基準」を面白く読めました。良い仮説の基準を、ここまで優しく詳しく説明した本にお目にかかったことがなかったので。ただ、(2)深さと(5)単純性の違いをもっと詳しく教えてほしかったです。「深い仮説とは、説明を要する事柄が少ない」「単純な仮説とは、存在する物の数を必要以上に増やさない」……。違いが微妙です。


 人間の行動を説明する際に、その行動がとられた時の外的な状況ではなく、その行動をとった本人の性格や嗜好といった内面を過度に重視してしまう傾向を「根本的な帰属の誤り」と呼んでいる。

 「根本的な帰属の誤り」には気をつけねばなりません。私の周りにも「あの人はこういう性格だから」と自信満々に話す人が見られます。確かに、他人を内面で説明するのは簡単なんですよね。内面は目に見えないので、たとえ無くとも「有る」と言えます。知識や根拠がなくても主張できるので、こういう話が浅薄だとは、なんとなく思っていました。私も気をつけねばなりません。

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