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【エッセイ】あゝお酒

生きた心地がしなかった。なんでかって、お酒が美味しくなくなったのだ。
大学時代、部活の練習に明け暮れていたときも、身を削るような気持ちで毎日会社に勤めていたときも、私はとにかく、お酒が好きだった。

職場を離れてフリーランスで生きていくと決めてから数ヶ月、私は「人生の猫期」と題してぼんやりと生きてみた。
なんとなく走る気分になれなかったし、走れる気もしなかった。フリーランスの駆け出しなんて、頬を高揚させて意気揚々とクラウチングスタートを決める時なのに、私はスタートラインに寝そべりながら、こてんこてんとただ寝返りを打っていた。

そんな時、地元の友人と久しぶりに「飲もう」ということになった。
よっしゃ!来た!
私は盛り上がるであろう話題を二つ三つ抱えて、華やぐ時間に胸を躍らせながらいそいそと店に向かった。
前からよく飲んでいた友達なので、席に座るとメニューも開かず、生でいいよね?と聞き、私がもたもたとコートも脱ぎ終わらない間に頼んでくれた。お通しに続いて運ばれたジョッキはとても冷えていて、大きかった。

自分の中の違和感に気がついたのはこの時だった。
「あれ、心が、踊らないだと?」
いつもなら、お酒が目の前に現れただけで臨戦態勢、いざ始まるぞと腰を浮かして飲む勢いすらあったのに。
それでも「お酒を飲むと盛り上がって楽しい」という文句がしっかりと脳に染み込んでいた私は、気を取り直して元気よく友人との再会に乾杯し、ビールを流し込んだ。

「なんだ、これは」
液体というより固体に近いものが、ぐぐっと喉を伝って胃に入っていくのを感じた。その後にはしっかりとした重みが胃の中に居座った。

炭酸が強くて、すごく冷たい。そして身体がぼうっとして、頭がふらふらする。ビールって、こんなに刺激の強い飲み物だったのか。

楽しい気分になる兆しはなく、むしろ飲めば飲むほど、意識の一部分はやたらと冴えていくのに、思考力と判断力は弱まり、それが無性に居心地悪かった。

それでもやはり「お酒を飲むと楽しい」論法にすっかりはまっていた私は、「久々に会った友人との会話も、やっぱりお酒が入るともっと楽しいなぁ」と自分に言い聞かせていた。
しかしそんな努力も虚しく、「お酒に対する自分のこの反応は一体なんなのか」ということが気になってしまい、友人の話も耳に入るや否やするりと抜けていき、私はひたすらごくごくと飲んではジョッキを見つめ、首をひねらせていた。

もちろん、お酒の味は今でも美味しい。ビールも焼酎も、日本酒もワインも、最近はウイスキーの味も好きだ。でも違う、ぐいっと飲んでパーッと明るくなって、恥ずかしげもなく色んなことを豪語する、あの時間が一番楽しいのだ。
今は、量よりも味。量は飲めないし、気持ちよく酔っ払うことはできないから、お酒を飲む時はお酒そのものの味に舌鼓を打ちながら、ちびちびと飲んでいる。
待てよ、これが大人の飲み方なのか?「節度良くお酒を愉しんでいる」ということだろうか。いやいや、騙されるんじゃない。たとえしょうもなくても、子どもでも、私はあの時間が何よりも好きだったのだ。

辛いものもそうだ。以前は大好きだったけど、今は刺激の強さに耐えられない。関係あるのかないのか、何故か会社を辞めたあたりから「性格が変わった」と周りから言われることがよくあり、ありがたいことに以前より人から好かれるようになったが、写真映えは前の方が良かった。はっきりと自我の強そうな笑顔をしていた以前の私とは打って変わり、最近の写真を見返すとどれも腑抜けたように顎を斜め上にあげ、へらへらと笑っている。

この「お酒の美味しさとは?」の命題に悩まされているのは、「猫期」からのそのそと腰を上げて「亀期」にようやく移行した今でも変わらない。「序盤のうさぎ期」になればまたお酒が美味しく感じられるのだろうか。

元々物欲も少なく、必要最低限のお金があれば良い(そしてどんな状態になってもきっとなんとかなる)と思ってしまう私は今、本当にマイペースに進んでいる。
事業でガッツリ稼いで成功者になりたい、とか、そんな気持ちでは燃えないのだ。ただただ「美味しいお酒が飲みたい」本当に純粋に、それだけなのだ。そのためなら、私は序盤のうさぎにも、勇猛果敢なケンタウロスにもなれる、ような気がする。

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