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就職とか私は興味なかった


 わたしは歌を習いたかった

授業に演技があったり
芸術、エンタメを学べる場所へ
進学したかった
進学できると思っていた

進路希望をギリギリまで出さなかった
親に進学の話をしたら
「うちにはお金が無いので、就職してください」
と言われた

わたしの実家は昔居酒屋をやっていた
だけど
高校1年 入学してすぐ居酒屋がつぶれた
破産したのです

姉や兄は私立高校だったり
大学へ行ったりできたのに
わたしは進学ができなくなりました

他にやりたいことが見つけられなかった

バイトは、カレー屋、コンビニ、定食屋など
転々としてきた

部活はダンス部
その当時はダンスをするやつは不良だと
思われがちで
先生たちからも両極端な態度をされていた

それでも何気にチームとして
地元で賞もいただいたり
部活は楽しかった

進路。
周りはどんどん受けるとこを決めていた。
大学、専門。
地元は楽器やバイクの生産が盛んで
その関係の工場や事務もなかなかの待遇で人気だった

でもわたしは待遇とかじゃなく
働くなら好きなことをしたかった

保護者面談で
先生からもあとはわたしだけと言われた。

帰りに母と就職先の募集リストを
いやいや見ていた。

すると母が
「東京のバスガイドはどう?
元々行きたがってた東京だし、寮もあるし、
それに歌える仕事だよ」
と言われた

全然気づかなかった。
バスガイドって歌える仕事なんだって。

募集期間は終わっていたが
先生に相談して、応募してもらった。

見学会も終わっていたので
ぶっつけ入社試験になった。

結果はクラスの誰よりも早く内定がでた。
「おまえ、合格だってよ」
と先生に言われた時
びっくりして、かたまっていた

先生から言われたのは
「テストや面接ダメダメだったけど
歌がよかったってさ。」と

それから
厳しい研修も何とか乗り越え
バスガイドデビューした

バスガイドの仕事は
拘束時間は長いけれど楽しかった
旅をしながら、お客様とおしゃべりしながら
歌も歌えて幸せでした。

だけど
歌のスクールに行きたい気持ちが
押さえられず
社員だとなかなか時間も取れなかったので
貯金が少し貯まったところで
夜バーでバイトをしながら
歌のスクールに行きました。

そのバーが店をたたむことになり
契約社員として、
バスガイドに戻らせてくださり
その同時期にグループではありますが
CDを出すことが出来ました。

そして、2011年3月11日
東日本大震災があり
観光業は激減。
バスガイドの仕事はすごく減っていきました。

すると
CDデビューした際の関係者が
バスガイドと聞き
それならアナウンスもうまくできるのではないかと
東日本大震災の復興イベントの総合司会のご連絡をいただきました。
もちろんお給料はなかったのですが
こんなわたしでもできることがあるならと
2012年3月11日から2022年3月11日まで
約10年間そのイベントの総合司会をさせていただきました。
そのイベントの初司会後、少しずつ司会者として他でも呼ばれるようになっていきました。

数年が経ち
当時のバス会社は
2足のわらじで働くことができなかったため
声をかけてくださった別のバス会社で
ガイドや添乗員をしながら
司会の仕事をしていきました。

その後 交通関係の手話教室で出会った方に
私から猛アタックして結婚
正社員は退職し
個人事業主としてそれぞれの仕事を請け負うことにし、妊活をしておりました。

そして先日、娘を出産したので
今すぐはガイドも添乗員も行けませんが
あの日進路希望のときに
母にバスガイドを勧められなければ
今の主人、娘に出会えなかったと思います。

次のステップは
娘と沢山遊びながらも
旅行とエンタメのお仕事を広げ
多くの方に届けていくことです!


#あの選択をしたから

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