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中国映画『小さき麦の花』@早稲田松竹

お盆休み前。
高田馬場にある名画座、早稲田松竹で見た、二本立てのうちの一本です:

中国映画
『小さき麦の花』Return to Dust
監督・脚本 リー・ルイジュン
https://moviola.jp/muginohana/#modal


2011年の中国西北地方の農村を舞台に、貧しい夫婦が、周囲から疎外されながらも、二人で手を取り合って生きていく物語。


村落のなかで、疎外され、笑いものにされながらも、夫婦は互いに支えながら、人間的な成長を遂げていきます。
夫婦が周囲から切り離された環境で支え合い、ともに暮らすなかで徐々に人間的な成長をとげていく過程が、農村の風景を背景に美しいカメラワークで表現されています。

一見すると、『小さき小麦の花』における農村の貧困の表現は、たとえば、戦後に貧しさにあえぐイタリア社会の現実を描いたネオレアリズモに通じるようにも見えますが、イタリアン・ネオリアリズムの大味さに比べると、『小さき小麦の花』のようなすぐれた中国映画に特徴的なこまやかな心理描写は、やはり現代的な味がします。

そうしたなかで、約70年の時を経て、『小さき小麦の花』がなんらかのネオリアリズム的エッセンスを受け継いでいるとすれば、それはたぶん、ネオレアリズモが真に確立した、都市化と住環境の変化というテーマではなかったかと思われます。



都市/農村の対立や変化とか、庶民の住環境の変化は、ナラティブにしやすく、時代の変化や社会の矛盾を表現する上でのわりあい好都合な題材なのかな、と思います。
(検閲にも引っかかりにくい、とまでは、ロッセリーニやデ・シーカ+ザヴァッティーニ作品をみればそうとも言えないのでしょうが)

泥レンガの農家から高層マンションへの移住、農道を走るロバと第地主の息子の真新しいベンツ、などなど、失われゆく農村の風景をノスタルジックに映しながら、その対立項である「近代」のアトリビューションを対置させることで、物語を進行させる。

2022年公開の本作の、デジタルで微細な画面づくり、貧農に住むはずの夫婦の栄養にあふれた様子、など、農村/都市の対立構造そのものが、すでにノスタルジーのかもしれないし、それは、ネオレアリズモで70年前から行われている手法の継承であるとすればそうなのかもしれませんが。たとえば、それは、ルイジュン監督が作品中で夫婦がネットや携帯電話など、21世紀的な通信技術の発達から完全に疎外された立場に置く、ことで可能にしているのだろうな、とも思います。



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