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池袋で展示を見てきた。

私の勝手な印象なのだけれど、いわゆる「福祉業界」は業界独特の言語や慣習や精神論が存在していて、部外者にとっては固い壁があるように感じて個人的には苦手な業界であったけれど、去年お世話になったアサダワタルさんが企画しているということで見に行ってきた。彼のように業界の垣根を越えていろんなことをする人が箱庭的な福祉畑に面白い風を吹き込むことはとても良いなぁと感じた。

この展示について、福祉界隈とアート界隈の双方から感想が出るのであろうから、それを見比べると面白いかもしれない。狭い世界の中で完結してしまっては閉鎖性すら気づけない。

話は逸れるが「福祉業界」に限らず、どんな業界でも組織を形成していく歴史の過程で、特殊言語が独自発達していき、組織内での結束を則す為に同じテキストを読み、信じ、情報や意識を共有する事が求められる。
結果、背くものを排除し、より原理忠実な者が崇められ、支持され、力を持ち、組織内は思想的に先鋭化されていく。外側にいる世界との隔たりはますます広がっていく。
私の少し知ってる美術業界でも図書館業界でも同じような状態であった。この集団力学や心理を理解し、注意し、惑わされないようにしなくては、他者や外の世界を、その側に寄り添って見ることはできない。


展示内容の感想は、一人一人の表現者の「作品」以外の部分を見せる(聴かせる)ことにより、作品世界や障害についての理解が深まると同時に、新しく発生する弊害もあるように感じた。「本人が実際に語った肉声」と結果的に「語らされたこと」と「語れなかったこと」を読み解き、想像し、区別することは、聴く者によって容易ではないだろう。作品はあくまで作品であって、解釈に答えはない。私には、これは作者や作品を見せるということよりも、もっとそれぞれの行為や支援者や取り巻く人々の多様さ、想い、全体を俯瞰するような意図を持った展示なのだろうと感じた。なにより音声に記録されているので、自分の知らないところで流れていた「時間」を生々しく感じた。

「表現」と「障害」はとても近いもので、私が本物だと感じた表現者で障害が無い人はほぼ見たことがない。
「障害」という文字から害のあるもののような雰囲気があるけど、表現する者にとっては必要不可欠で、それが複雑で深くあるほどに力のある表現が産み出せる。

近年、アールブリュットがますます求められている原因も、求めてる側の健常者が高度に組織化された社会生活の中で生じる疑問や、適応することで抑圧排除されてしまう自閉的部分の高まりと比例しているように思う。
健常者が生きている「健常的な社会?」で縛られている常識や通念、構造、政治、排除される本能や衝動が、
生物の自然な状態(多様性や異常性を許容する部分、生命の衝動や無意識の豊かさ)からすると、現在の社会は「異常」な生きずらい状態になっているのだと思う。
だからこそそこを嗅ぎ分けたり、生き物が本来持っている感覚に敏感な障害者の声や表現を希求されているのかもしれない。

私の大好きなピンクフロイドは、脱退したシドは精神障害、ロジャーは強迫症で発達障害、ギルモアは自己愛過多で他外衝動、メイソンはボンボンで浪費癖、ライトは健常者で透明喪失宗教心、こんなめちゃくちゃなバンドだからこそ、あの美しい歪みや深淵なるカオス、超常パワーが衝突や葛藤や化学反応が生まれて奇跡的な音楽と結実したわけで、

やはり障害者と健常者は、手を結んで一緒に何かをどんどんやるべきだ。
まあ必ず衝突して解散するのだろうけど、、。


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