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短編 『 蜜 』

          (約1,400字)


 数分前までの音を立てて降る雨は、二人の吐息すら邪魔しないように、遠慮がちに降りつづいた。
 喫茶店の空気は二人きりの空間が居心地よくしているのかいないのか、判断がつかないほどの静けさを許していた。

 「ハチくん、話してくれてありがとう」

 エイトは落としていた肩の筋肉に力を入れて顔をあげて、私の方にいつもとは違う笑顔を無理やり作っていた。
 袖の碧色のカフスボタンをなでて、また両手を軽く組んでから口角をあげて、ニッと笑ってみせた。

 こうやって胸に落ちた寂しさを紛らわして生きているのが、いつもの笑顔に戻すたびに彼を悲しませているのだと分かった。

 当時の状況を思い出した彼が苦しそうで、私が知るエイトのお兄さんに関する情報は伝えるタイミングを選ばなければいけない。

 「ねぇ、もう8時過ぎちゃうけど、帰りは大丈夫なの?傘、持ってきてないでしょ」

 私は窓の外の様子をうかがってから、傘立てに花柄の長い傘が一本しか置いていないのを思い出した。

 「大丈夫、雨は嫌いじゃないから」

 エイトは腕時計に目を落とす。その腕が穏和な表情には似つかわしくなく、がっしりして頼もしく思えて、視線を外しそうになる。

 「家までは電車に乗って、1時間くらいかな。降りた駅から3分で家には着きます。
一度、会社に戻って、置き傘をとってきてから帰りますよ」

 明るく笑ってから、エイトは伸びをして食べかけのベイクドポテトをつまんで口に放り込んだ。「おいしい」を言葉に出さずに唇の動きだけで表現した。

 かわいらしい人だと思った。

 一年前に会わなくなったお兄さんを取り戻したいと考える時間を、今は忘れて欲しかった。私は、手元にあるコップの水をようやく口にした。レモンの香りは抜けていた。

 「ねぇ、ハチくん、そういえばビーフシチューが美味しい曜日って、いつなの?」

 「決まって、水曜日と日曜日かな。ジンちゃんの仕込みの日から3日後なんだ。そのくらいに一番美味しくなってるらしい、‥‥らしいんだけど、ハッキリとは教えてくれないんだよね」

 そうか。水曜日か日曜日にはビーフシチューを食べに来るんだな‥‥いつの間にか、私はビーフシチュー目当てに店に来るのではないことに、心の中で赤面した。

 どうしよう。彼の弟かもしれないのに。

 ジンちゃんは眠そうなフリをしながら、洗濯物のキッチン用のタオルを片手に持ち、カウンターまで戻ってきた。

 「おや、お帰りかい?」

 ジンちゃんは、二人が話すのを邪魔しないように二階で時間を潰していた。

 「付け合わせのピクルス、とても美味しかったです。ご馳走さまでした」

 私はジンちゃんの気遣いに感謝していた。

ーこれ、持ってきな、と片手にようやく収まるくらいの瓶詰めを私の前に置く。

 「いいの、みどりさんは又、店に来てくれそうだからさ‥‥家で食べてよ。沢山、作ったときにお客さんに差し上げているんだ」

 ビネガーと蜂蜜で漬けてある瓶は、美しい蜜色をしていた。

 エイトは手の平をみせて、持ってけ、というように促していた。

 「ありがとうございます」

 「ハチも、いくつも持ってったよな。礼だけは言うんだけどね、感想、聞かせてくれないの。みどりさんは、そういう人じゃ無さそうだから、差し上げ甲斐がありそうだ」

 エイトが明るく、冗談を言いながらジンちゃんと過ごしていることに、ホッとしていた。

 蜜色の瓶詰めを大切にバッグにしまい、蔦が雨で光る喫茶店をあとにした。


                 続く


       ※フィクションです



           ↓前々回のお話です。

注:前回のお話は、エイトの兄の過去の物語です。

   ↓次回のお話です

 短編小説集『カラーズ』のマガジンを作りました。
 配信時間の変更、申し訳ありません。

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