短編 : 『 そのひと言があった 』
(約1,600字)
キッチンには、明るい色合いの封筒を無造作に置いた。サンキャッチャーがキラキラと陽光を集めた明るい部屋なのに、気持ちだけが塞いでいた。
あの日の午後の作業は、過去の経験には覚えがないくらい汚れ仕事のように感じて、自分のお財布から全てのお金を出して広げてみた。
7,904円‥‥次の給料日まで何日あるんだっけ‥‥‥あたしは自分の労働時間をぼんやりと思った。
時間給にしたら最下級に属する部類かもしれない。「働いて生活する」という国民の義務が途轍もなく哀れな作業で、楽して暮らしたい欲求が誰にでもあることが世界で共通する温度に感じてしまう。
ひとちゃんは病院にいる。
ICUの部屋から出られたのだろうか。
昏睡状態から脱したのだろうか。連絡がこないのは、進捗がないということなんだ。
溜め息をつき窓の外を仰ぐと、日が暮れかけて小学生らしい無邪気な声が聞こえていた。ひとちゃんとあたしも、あんな風に笑い合って走っていた時代があった。
あの日から5回、地球はまわった。あと何回夜を越えたら、楽になるんだろう。
すうっと眠気がやってきたときに、携帯電話が鳴り響いた。
ひとちゃんが目覚めたニュースが舞い込んだ。人生で一番待ち望んだ電話だった。
病院に行き、手荷物の確認と名簿に名前を記入する段取りがあった。今回は口頭での本人確認ではなく、看護師の眉間に皺が寄っているのが見てとれた。
おそらく、果物を持ってきたときに対応した看護師と思われた。
部屋に入ると、ひとちゃんは静かに笑っていた。
「また会えたね」
ひとちゃんは困ったような顔をして、頭の後ろを撫でながら言った。
「昨日ね、目覚めたんだよ。でも、何かあるといけないから、あんたには直ぐに連絡しないでほしいって頼んだんだ。悪かったね、ずっと嫌な気分にさせたね」
あたしはそれがどういう意味か分かったけれど、何を話そうか迷っていた。
「お金‥‥私が預かってるよ。銀行から引き出したこと、すごく後悔した」
あたしは正直な気持ちを言葉にした。
「ありがと。よかったよ。
死んで、身内に渡るのが嫌だったんだ。うちのお母さん、全然、駄目なんだよね、知ってるでしょ」
あたしは返事をする代わりに頷いた。
「ちぃには言ってなかったけど、自分が学校を卒業してお母さん、再婚したんだよ。相手の人、すごく良い人でね、働き者で、血が繋がってないのに自分にも良くしてくれて‥‥。でも、頑張りすぎたのかな、呆気なく逝っちゃった。仕事中に、事故に遭ったんだよ」
あたしは、ひとちゃんのひと言ひと言を聞きもらすまいと思っていた。
「ショックでお母さん、お酒に依存するようになってね、駄目だね、弱い人なんだね」
ひとちゃんのお母さんは生活保護を受けながら地味に暮らしているが、少ないお金でもアルコールに変えてしまうため、銀行のカードをあたしに寄こしたのだった。
「嫌いな人の誕生日にしたって‥‥」
ひとちゃんは声を立てて笑った。
「誰が嫌いな人の誕生日、わざわざ暗証番号にするか、って。毎回、お金を引き出す度に嫌いな人、思い出したくないでしょ」
そりゃそうだ‥‥あたしはその日、はじめて心の底から笑った。
「昔、言ってくれたんだよ。ちぃが、なんで自分と一緒に帰ってくれるか、聞いたときに」
「あたしは、ひとちゃんと話をしてるんだよ。ひとちゃんのお母さんは、ひとちゃんとは違う人だよ。あたしは、ひとちゃんの言うことを信じる、って」
覚えてないよ、とあたしは言うのを飲み込んだ。
「だから、一生、ちぃとは仲良くなろうと決めたんだ。お金は、そのときのお礼なんだよ」
信じる気持ちの大切さを感じていた。
それは、私を生かすんだ。
「ありがとう。でも、また生きるんだから、お金は必要だからね」
あたしは、ひとちゃんに宝ものをもらって、生きる力を得た。
おしまい。
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