イエスタデイと音楽の価値

「みんな知ってる曲をやってくれますか?」

ライヴのオファーを受ける時に、よくあるご要望のひとつだ。つまりは、有名曲を演奏してほしいということである。しかし、僕のように自前のヒット曲があるわけではないミュージシャンにとって、それは≒カバー曲のことを指す。もちろん有名曲のカバーである。
しかし、シンガーソングライターとして自らの音と言葉を披露することこそがやりたくて歌っている自分にとって、それはなかなかツラいところがある。他人の曲を我が物顔で演奏してお金をいただくことへの申し訳なさのような感情もあるのだけれど、もっとドロリとした自意識をそのまま言葉にすると、「俺は音楽再生機じゃないぞ」という感じ。なんか、自分を知ってもらったことにはならない気がしてしまう。
そんなわけで、僕はカバーが苦手である。

ここで、「いやいや、好きなミュージシャンがどんな選曲やアレンジでカバーするかって楽しいじゃないか!」と言いたい方もいるかと思う。そうそう、そうなのだ。すでにアーティストイメージがあるミュージシャンおよびバンドの場合は、カバーの意味はだいぶ変わってくる。文脈や出自、あるいはファンサービス的な意味でも、“表現”になりうる。

しかし残念ながら、今このボヤきの議題にしているケースは、そうではない。これは、「何を聞かされるかわからない僕のライヴを初見の皆さんに向けたパフォーマンスにおいて、会場やお客さんの雰囲気を危惧しての主催者や依頼からのご要望」なのだ。(なんなら、その依頼人は僕の曲を聴いたことがなかったりすることすらある)だから、心が戦ってしまう。「俺は音楽再生機じゃないぞ」と。
人は、確かに“知っている曲”が好きだ。有名曲のカバーは強い。いやだけど、そんな曲たちだって最初は新曲であり、新鮮曲であり、知らない曲だったはずなのだから、その場で知ってくれればいいんじゃない?そのほうが刺激的だし!とも思うけれど、これは言いがかりギャグであり、そういう理屈じゃないことはわかっている。
知っている曲が聞こえてくるのは、共有できる喜びがあるし、すでに美味しいことを判っているメニューを食べるような、安心感のようなものがあるのかもしれない。

そんなわけで、2度目だけど、僕はカバーが苦手である。
なんと卑屈なことを書いているのだろう... と自分でも心配になった。なったけれど、ライヴをするミュージシャンの中には、同じような気持ちにさせられたことがあるという人も、実は多いんじゃないかなと思うのだ。
まあ、有名曲も持つひとたちは、また次のレベルの悩みがあるのだろうとも思う。いつも過去のヒット曲を期待されちゃう、とか。

ただし、こんな苦手だ嫌だとボヤきながらも、
カバーを全くやらないこともない。というか好きだ。カバーは本来楽しいのだ。聴くのも、やるのも。
僕だって最初は他人の曲から始めた身だ。音楽やバンドの原初の楽しみがそこにはあるはずなのだ。だが、前述のような理由で、場合によってはライヴで演奏することにジレンマを感じてしまう。
苦手、というか、警戒心がある。

要は、みんなが知っている曲こそが「音楽」となってしまうことには、ハードな抵抗があるのだ。自分の存在意義を、音楽の価値を全く無きものにされてしまうようで、絶望的な気持ちになる。

さて、ここまで映画の「え」の字もからんでいないね。
そうだそうだ。何が書きたかったかというと、ちょっとこじつけっぽいかもしれないけれど、僕がある意味トラウマ級に衝撃をくらったツラい映画の話をからめようと思う。

語りたいのは、ダニー・ボイル監督の『イエスタデイ』である。ある日突然、歴史からザ・ビートルズの存在が無かったことになる、という、思考実験みたいなストーリーの映画。主人公は、売れないシンガーソングライターの男性。冒頭、大きなフェスに出演したのに行ってみたら閑散としたサブステージだった、とか、痛烈にリアル。当然、少し自分を投影してしまうところもある。あ、面白いかもと思った。ライヴの帰り道、主人公は事故に遭い、病院に運ばれる。目を覚ますと、どうやらビートルズがいない世界に迷い込んでしまったことに気付く。そして彼はビートルズの次々と自分の曲ということにしてしまう。

で、実は僕はザ・ビートルズが苦手である。
正確に言うと、ビートルズがあまりに好き過ぎる人たちが苦手である。僕はビートルズをそりゃ知ってはいたけれど、だいぶ大人になるまでちゃんと聴いてこなかった。それもあって、好き過ぎる人たちから、ビートルズの驚異、よりも脅威をたくさん浴びた。詳しくは書かないけど、なんだか怖いなと思っていた。なんでもかんでもビートルズで理解しようとされてしまうから、怖い。そのことに小さく傷付くようなこともあった。自分は履修してない全人類の共通言語であり、教科書のような存在なのかもしれない、と思っていたけれど、今はそうは思わない。どこまでいっても、そんなものは在り得ない。そのことは自分もちゃんと心に留めておかねばと思う。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が嫌いな人がいたっていいんだ。

だから、この『イエスタデイ』という映画は、僕には怖くて、グロテスクな映画だった。誰しもが主人公が代打で歌うビートルズに感動し、彼はどんどんビッグになっていく。エド・シーランが「負けたよ」とか言う。やがて、自分が偽物であることに耐えられなくなった主人公がステージ上で真実を、そしてずっとマネージャーをしてくれていた彼女への愛を告白。最後は、どこぞの施設で子どもたちとビートルズを歌って映画は終わる。
え?…ひどい。いや、良い曲だけどさ、なんで“誰もが”感動しちゃうんだ。せめてせめてせめて、ステージで真実の告白をしたときは、主人公がちっとも売れなかったけど、友人や彼女が喜んで聴いてくれていた「サマーソング」(みたいなタイトルだった)を歌って欲しかった。結構本気で心で呼びかけたのだ。「歌え!頼むから今歌ってくれ!」と。バカにされても、ブーイングが起きても、みっともなくていいから歌って欲しかった。そう終わるべきストーリーなんじゃないのかと、思った。でもまあ、これから真実を告白しようとしてるのに、なんでやっぱりビートルズの曲で登場してきちまったんだよ、って思った辺りから、どうもおかしいなとは思っていた。
彼は歌わなかった。自分自身を歌わなかった。

この映画は、僕にとって、僕から観て、ただの音楽フィクションではなかった。自分の存在意義を、音楽の価値を全く無きものにされてしまったような、恐ろしくて絶望的な一本だった。
なにより無抵抗の主人公に腹が立った。ビートルズに屈服し、笑っていられることに腹が立った。

そして、僕は思ったのだ。
「いつか俺はビートルズを倒す!」


... あ、いや、何も物騒なことはしないけれど、そのくらいの気持ちで音楽やるぜ、ということである。こんなことなかなか大手を振るって発言は出来ない。失笑され、一蹴され、鼻で笑われても足りないのだろう。なんなら僕が物騒なことをされかねない。敵を作ってしまいかねない。
だからエクスキューズをしておくと、ザ・ビートルズは凄いし、大好きだ。とても良い曲がいっぱいで素敵だ。(バカみたいな文章だ)
でもね、何かに先に平伏して、有名曲に阿って音楽をやるなんて、そんなことにはどうにもトキメキが感じられない僕なのである。性分なのだ。昔は周りが先輩ばかりでこんな生意気なことは言えなかった。だけど、もう僕はだいぶ先輩側に立ちつつある。だからもう言っても良いんじゃないかなと。こういう、“絶対的な良きモノ”と思い込まれたものが他人を傷つけてしまうような、ビーハラ的なことは、別にビートルズじゃなくても色々あるのだろう。僕は先輩として、そういうことに気を付けたい。もしやってしまったなら教えてほしい。
とりあえず、エド・シーランには一言物申したいよ。待ってろ。


(あれ?エド・シーランが存在してるってことは、彼はビートルズの影響ゼロで誕生したミュージシャンです、ってことになるのかな?)

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