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〔鶴見線探訪〕赤い橋のプリンセスは〔弁天橋駅〕

弁天社 村内南ノ方ニアリ、社巽 向ニテ、大サ九尺四方、向テ右ニ稲荷ノ小祠ヲ建、光永寺持

「新編武蔵風土記稿」

弁天橋駅の謎

弁天橋駅

▶鶴見線の弁天橋駅は、かつて付近が漁村だった時代に祀られていた弁天社の池に架かっていた赤い橋に由来するという。

「弁天橋」について

▶弁天(弁財天・弁才天)はインド神話から仏教に取り入れられた女神。七福神の紅一点で音楽(芸能)・財福・知恵の徳があるとされる。
▶三弁天として芸州宮島、江州竹生島、相州江の島がある。
▶日本では宗像三女神の次女・市杵島姫(厳島社)と習合し、水の神として祀られることが多く、そこには池(及び橋)が作られることになる。
▶寺社における橋は赤く、これは魔除けの効果とされるが錆止め・防腐剤の色が実際の理由。いわゆる「丹塗り」である。

「弁天橋」の由来となった社祠について

▶現在弁天橋駅付近には弁天社(弁財天)は存在しないが、弁天橋駅のある鶴見区潮田地区にはかつて複数の弁天社があった。

汐入の弁天社

▶駅東側付近の地名「弁天町」は汐入の弁天社に由来する。
▶この弁天社は現在の汐入公園の一角にかつて祀られ戦災後も復旧したが、自治会館の拡張に支障となったため潮田神社でお焚き上げされ消滅した。安芸国宮島の弁財天を勧請したものであったという。

汐入公園前にある「弁天下」バス停

小野弁財天社

▶弁天橋駅の西側、小野町には「小野弁財天社」がある。
▶こちらは江戸期鶴見川河口の防潮堤築造の際に祀られたもので、当初は下野谷町と小野町の境(JR鶴見川橋梁の左岸側付近)にあったが、1922年(大正11)臨港鉄道*¹敷設工事の際に支障となったため遷座、その後現在の社地へ再び遷された。
▶こちらは相模国江ノ嶋の弁財天を勧請したものである。

*¹ 現地解説板より。鶴見臨港鉄道は1924(大正13)年敷設免許取得、1926年(大正15)浜川崎-弁天橋間開通であるため時期的には海岸電気軌道かと思われるが位置が明らかに支障しない。時期が誤りか?

幻の弁天社

▶弁天橋駅の由来となった弁天社は、「付近が漁村だった時代に祀られていた弁天社」ではなく「旭硝子工場内弁天社」である。
▶1916年(大正5)、京浜地区の埋め立て造成にあわせて旭硝子会社は鶴見工場を開設。所謂企業神社として弁天池を備えた弁天社を祀った。安芸の宮島の弁天を勧請したものであった。
▶戦後旭硝子の社宅が鶴見区北寺尾七丁目(獅子ケ谷アパート)に移転するのに伴い北寺尾に遷された。
▶北寺尾の旭硝子社宅は現在解体され住宅地となっている。現地には弁天社は存在しない。

まちカドの女神の行方

▶「付近が漁村だった時代に祀られていた弁天社」は、旭硝子工場の開設とともに生麦へ遷されたという説がある。
▶生麦は「鶴見七福神」の弁天社である「安養寺」がある。こちらへ合祀されたものだろうか……。

一到山弥陀院安養寺(横浜市鶴見区)

▶一つ気になる弁天様がある。生麦神明社の境内片隅、いくつかの庚申塔とともに安置されている「辨(弁)才天」石碑。
▶他の石碑は明らかに寄せ集めであり、この「辨才天」石碑もどこからか移してきたものと思われるが――。


側面には「◯二町」?の文字

――まちカドの女神の行方は、杳として知れない。

参考文献

サトウマコト「鶴見線物語」 ――230クラブ新聞社(2005/11/1)
林正巳「消える潮田の弁天様」 ――鶴見歴史の会・編『郷土つるみ 第50号』(1999/08/31)


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