(備忘録)”藤村式建築”について
藤村式建築とは
▶官選初代山梨県令(赴任時は権令)・藤村紫朗*¹によって奨励された一連の擬洋風建築である。
▶特徴としては、左右対称の2階建て、中央の入口、バルコニー、塔楼(太鼓楼)。「インク壺」と呼称されることもある。
▶藤村の任期は1873年(明治6)から1887年(明治20)。その間山梨県下には数多くの擬洋風建築が誕生した。
1884(明治7) 梁木学校・琢美学校[小宮山弥太郎]
1885(明治8) 津金学校[小宮山]
日川学校・睦沢学校[松木輝殷]
1886(明治9) 祝学校[松木]
1887(明治10) 平等学校[松木]
藤村紫朗が西洋風建築を”命じた”?
▶多くの「藤村式建築」紹介サイトでは「県令藤村紫朗が命じた(奨励した・建築した)」と記載がされている。意味はどこも似たようなもの。
▶一方webサイト「ニッポン旅マガジン:19山梨県 津金学校*²」によれば「地元の棟梁が当時の流行を取り入れ」「和風でも可とされてい」たとある。
*² 旧津金学校(北杜市)。典型的な「藤村建築」の代表例であり現存例
▶実際に東京府下に建てられた多くの擬洋風建築は施工した大工の創意工夫であることは有名である。
小学校建設図
▶小学校建設図とは「文部省制定小学校建設図」布達である。この中でロの字型の校舎が典型例として挙げられている。
学校通論
▶明治7年刊行。原著はJ.P.ウィッカーシャム(米ペンシルバニア州)
▶この中に「学校家屋の形正角なるを最良とす」とある。
▶これらはまさに「インク壺」ではないだろうか。
山梨県学校建築法ノ概略
▶明治10年5月2日山梨県乙第76号にて発出。これは藤村県令の施政下。
▶「学校建築法」は、明治5年の学制布告後の近代教育の普及を受け小学校建物を開設するに際し各府県が作成した指針(ガイドライン)
▶山梨県学校建築法は茨城県の同指針に補足を加えたものであり、「学校通論に見えたり」と記述があるように「学校通論」(明治7)に影響を受けている。*³
*³ 関沢勝一・新川亮馬・馬渡龍「『学校通論』(原著School Economy)が明治初期の「学校建築法」に与えた影響に関する考察」日本建築学会計画論文集第527号 2000年1月
▶小学校建築は法令やガイドラインとして規定されており、そこに「西洋風」を殊更に命じる記載は見当たらないようだ。藤村紫朗がその強力な手腕によって県下に西洋風建築を広めたとするストーリーには、少々違和感がある。
小宮山弥太郎
▶藤村紫朗の命を受けて最初に山梨県内に擬洋風建築を建てた人物である。
▶甲斐国塩山出身の社寺建築棟梁で御三卿・田安家の作事頭となった。
▶維新後、横浜・東京の洋風建築技術を独学で習得。
▶藤村紫朗だけが山梨県に擬洋風を広めたのではない。鍵はこの進取性に富んだ一人の大工だったのである。
参考文献
・関沢勝一・新川亮馬・馬渡龍「『学校通論』(原著School Economy)が明治初期の「学校建築法」に与えた影響に関する考察」日本建築学会計画論文集第527号 2000年1月
・山梨八重子「保健室のルーツとしての「摂生室」についての一考察」熊大教育実践研究第31号 2014年
・賀暁星「学校建築空間の一考察」教育社会学研究第44集 1989年
・溝口正人「近代小学校建築の成立をめぐって」(https://ncu.repo.nii.ac.jp/record/2696/files/B71-20000331-166.pdf)
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