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(思考の整理)「王子保」について

――「古代には、河野や敦賀の海と武生の国府を最短コースで結び、塩を運んだといわれる「塩の道」があった」(…)「往古は王子保、元暦2年(1185年)より大塩保と号す」と記される。(王子保の歴史|おうしおFUN!)
▶ちなみに所謂塩地名において塩の運搬ルートを考える必要はない(後述)

「王」≠「大」

▶歴史的仮名遣いにおいて王は「わう」、「大」は「おほ」と記される。
▶王子保は「わうしほ」、大塩は「おほしほ」である。厳密には両者は表記が違う。
▶つまり「大塩(おほしほ)」がどこかのタイミングで音の似ている「王子保(わうじほ)」の漢字に入れ替わった。つまり「王子保」の由来は直接に「塩」ではない。

「鉄道停車場一覧 」昭和9年12月15日現在より

「大塩保」「オホシホ」の地名由来

▶「シホ」地名は「しぼんだ沢」を示す。
▶王子保地区の大塩町はまさにこの特徴を捉えている。
▶おそらく原義はこの「しぼんだ(ような)沢の地形」だろう。

▶また「保」は11世紀後半以降出現する国衙領(*各国国府所轄地)内の行政区画で、主に在家領主による開発・支配を受けた。設置は国司専決事項。
▶駅名に残っている例としては同じく北陸地方の七尾線「笠師保」がある。

「王子保」と”王子信仰”

▶王子信仰の流行にあやかって、大塩と呼ばれていた地域に音の似ている「王子」の字を当てはめたとするアイデアは興味深い。

▶王子信仰は「神が高貴な幼児の姿で顕現する」という信仰で中世に流行した。熊野権現(熊野三山)に付随する例が多いほか、牛頭天王の眷属神である8人の王子(八王子)も同じく山岳信仰である山王信仰と結びついた。また八幡信仰における若宮とも共通点がある。

御子神の信仰を広げたのは神の託宣が幼児や女性の口から伝えられるという巫女の信仰で,巫女自身神の子と称して自分を権威づけたのであろう。全国に分布する若宮信仰の背後にも若宮部と称する託宣を行う集団の活動があった。

平凡社百科事典マイペディア

▶王子保地区には「大塩八幡宮」がある。祭神は帯中日子天皇*¹ 品陀和気天皇*² ほか18柱。
*¹ 仲哀天皇 *² 応神天皇,八幡大神

仁和三年(887)八月三日、紀中納言友仲朝臣が当国(*越前)国府の南泉島へ流罪になった。無実の罪を歎きながら榊を現在の本殿の地に植え、石清水八幡宮の神を祀り、麓に参籠所を設けて日夜祈願を続けた。宇多天皇の御代寛平元年(889)三月勅許により京都に帰ることができた。このことを喜び神勅を戴いて社殿の造営にかかり同三年(891)八月二十日石清水八幡宮の神霊を勧請し鎮座した。(…)鎮座の際王子保の地一帯を神領とした事から大塩保八幡宮と言われた。

福井県神社庁

▶また”王子”は熊野権現の遥拝所という性格を持つ。
▶越前国脇本荘(南仲条郡)は熊野神社の神領だったことが分かっている。

▶王子神社(東京都北区)に由来する王子しぐれさんともつながりがあるのかもしれない。


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