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HSPの私が生きる道(14) - 正直さについて

勤め人だった頃、上司のミスをかぶったことがある。
日本の会社組織ではそう珍しい話でもないかもしれないが、10年近く前のことなので、時効だと思って書いてみよう。

社内に新しい機材が導入されて間もなく、私は業務上のミスを連発していた。
品管担当からは白い目で見られていた。物覚えの悪い、面倒な奴。そのような認識だったろうと思う。

当時20代半ばの私は、若手社員として自己啓発系の研修の洗礼を受け、言わばまあ「正気ではなかった」。「できるかできないかではない、やるかやらないかだ。いや、やるかするかだ」そんな言葉を真に受けて、ムダに積極性を身につけていた。

そもそもその研修は経営者がメインターゲットなのだ。経営者向けの研修を一般社員に受けさせたところで、組織がおかしくなるだけだ。あの研修で組織における真っ当なフォロワーシップが育つとはは到底思えない。

ある日「正気」を失った私は、直属の上司とともに品管の尋問を受けていた。
おいコラ、何してくれとんじゃい、と。
そこで私は、身の程知らずにも上司を庇うような発言をしたのである。

今にして思えば、上司の指示不足だった。どう記憶をほじくっても、言葉の足りない上司とやる気だけしかない部下という最悪の構図しか思い出せない。まあ、言った言わないの話だから、もはや真相は闇の中である。

それでも自分の非を認めた私に対して、上司は何も言わなかった。内心ほっとしていたのかはわからないが。
結局、私が報告書を書き、その期の査定は下落。

大変いい勉強になった。(ゲス顔)

当時は責任感がムダに強かった。研修による洗脳の功罪だった。

「全ては私の責任でございます」

そんな美しい言葉でラッピングされた傲慢な論理は、組織の代表が謝罪会見を開く時に取っておくためのものであり、少なくとも20代の下っ端リーマンは絶対に、絶対に信じ込んではならないと思う。組織の論理を正確に認識できなくなってしまう。

HSPの敏感な感受性と自己啓発は、おそらく相性が悪い。
自己啓発は心理学や脳科学を恣意的に利用している。それが悪いとは思わない。なぜなら一定の需要があり、商業的に成立しているからだ。

だが「啓発」とは「気づかせる」という意味を持つ言葉である。HSPはどちらかといえば「気づきすぎる」脳の構造をしているマイノリティである。むしろマジョリティと認知がズレることの方が多い。

HSPは自己啓発系のことばを一見素直に受け入れる。感動のあまり号泣することもあるかもしれない。
だが、実はその涙は危険なのだ。泣ける映画を観て流す涙の方がよほど無害である。

過剰な自己啓発によって、HSPの「気づき力」にブーストがかかったとき、同時に周囲との乖離にも拍車がかかる、つまり協調性を損なうおそれが高い。私は経験上そう考える。

HSPは周囲との協調が崩れることに対して非常に敏感に反応するし、人一倍ストレスを感じる。
繰り返すがこれは脳の構造上の特性であり、「改善」は非HSPが思うほど簡単ではない。時にはカウンセラーや医療関係者のお世話にもなるだろう。

正直者は馬鹿を見る。だから嘘をつき通すか、真実を隠し通す、それも一つの賢明な判断だ。だが、私はどうやら馬鹿を見てでも正直に生きたいらしい。

正直さを貫いた先に何が待っているのかはわからない。そこは獣道だろうか、はたまた最期は野垂れ死ぬ運命だろうか。

それでも、振り返れば道ができていて、いつか誰かがその道に気づいて、そっちを通ってみてくれたりしたら、とても嬉しい。

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