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グリーグ:ホルベルク組曲(ホルベアの時代より)「前奏曲」 (感謝)

クラシックの音楽事務所の新人が海外のアーティストを担当するとき、移動宿泊の手配が比較的シンプルなソリストからスタートする。私は指揮者を多く担当した。日本のオーケストラと共演する海外の指揮者は、一人もしくは奥様と来日して都内に宿泊、複雑な移動がない。

その国を代表するようなマエストロ(先生)とよばれる指揮者との仕事に、毎回最大限に緊張し、高い音楽性、知性、理性、品格、人格に圧倒された。滞在中、私のできることといえば、車とお水の手配ぐらい。大したことは何もできず、知らないことばかり。クラシック音楽どころかヨーロッパの歴史も文化も自分の国のことも、何も知らないことが恥ずかしかった。

帰国の空港のゲートで「いろいろ本当にありがとう。皆さんによろしく」と、左右の頬をやさしくあわせるヨーロッパ式の挨拶をしてもらったのは大切な思い出だ。それでも、アーティストたちと仕事をすればするほど、自分には何もないと自信をなくしていった新人時代だった。

その頃、高校時代の友人に一緒にお茶のお稽古に行かないかと誘われた。自分を支えてくれる何か大きなものが欲しいと、ふらふらと吸い寄せられるようにお稽古に通うようになった。

映画「日日是好日」(原作:森下典子)は、樹木希林さんが本当のお茶の先生のようだと話題になって、たくさんの人が見たと聞いた。あの映画は、お茶室での出来事を本当によく描いている。表千家のオレンジ色の仕覆、知っている掛け物、お道具、お菓子、お湯の音、茶室に入り込む光の具合、馴染みのある場面がたくさんあった。

映画の主人公も驚いていたが、お茶は、道具の扱い方、畳の歩き方、季節ごとのあれこれと、細かい約束ごとがたくさんある。映画の中で先生は「理由なんていいのよ」とつぶやいていたが、ちゃんと理由もある。そのよくよく考えられた特別な複雑さが無心につながっていくと気がついたのは、ずいぶん後になってから。静かな心と静かな心が重なり、ゆっくりとひろがって、溶けていく不思議な世界。

時々思い出すのは、お稽古を始めたばかりの梅雨の頃、お茶室で見た青梅の和菓子のことだ。日曜日の午後の薄暗い茶室で菓子器の蓋をあけると、そこにはういろう製の青梅があった。鮮やかな薄緑のぷっくりした丸い実にすっと割れ目が入ってかわいいお尻のよう。それが本物の青梅以上に本物らしい和菓子であることに感激したが、何よりはっとしたのは、この時期が青梅の季節であるということを(私の周りで季節が回っているということを)、私は今まで意識したことがなかったということだった。

内面の純粋さに執着するあまり外的な世界に無関心になっていく。それが青年期の闇というものであれば、私もその中にいたのかもしれない。近づき過ぎた自分から解放されるには、外界への関心をとりもどせばいいはずだが、硬直した心が再び向きをかえて動きだすには、何かきっかけが必要だった。私には青梅がそのきっかけとなってくれたらしい。ひとたび、顔をあげて周りを見まわせば、目の前に調和のとれた美しい自然があり、私もその調和の一部として自然の中に置かれていることを無理なく理解することができた。

「日日是好日」の映画では、盛夏の頃、主人公が「瀧」と書かれた掛け軸をみて、水の勢い、冷気、滝そのものを感じるシーンがあるが、それは、私が青梅に感じたものと同じ感覚だったのではないだろうか。見ようとした瞬間、今まで見えなかったものが現れてくる。すでにずっと前からあったもの、かつてなかったことはなかったもの。外に心を開くとは、あるもの全体の一部として自分もそこに居場所があると信じることだ。

ノルウェーの作曲家、グリーグのホルベルク組曲(ホルベアの時代より)は、はじめピアノ曲として作られたが、その後、作曲家本人が弦楽合奏版としても編曲した。私はこの曲をどこで知ったのだろう。とても懐かしく感じる。すみずみまで知っているような気がするので、自分で弾いたことがあるのかもしれない。ちょっと思い出せない。ホルベア組曲の「前奏曲」を聴くと、目の前に滝が現れるような気がするのは私だけかしら。そして緑溢れる中にいるような、自然と一体になって喜んでいるような気持ちでいっぱいになる。


映画「日日是好日」
https://www.nichinichimovie.jp/

グリーグ :ホルベルク組曲(ホルベアの時代より)「前奏曲」
弾く喜びでいっぱいのノルウエー室内管楽団のホルベルク組曲
https://www.youtube.com/watch?v=lXy21qsLY1A


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先日のお茶室の掛け物は、「竹」(竹在清風)だった。竹に節がある。

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