「ハナサカステップ」解釈小説:『枝のない花』

本作は、企画「『ハナサカステップ』解釈小説対決」のために書かれたものです。これは、ぼっちぼろまるさんの曲「ハナサカステップ」をVRChatのフレンドさんたちと聴き、歌詞への解釈の違いを小説で表現し合う企画です。

まめのすけさんの作品はこちらです。

原曲MV(映像は解釈の対象としない):


枝のない花


 彼女のいた春が過ぎて、彼女のいない夏が来た。

 雨の匂いをこれほど疎ましく感じたのは初めてだった。この時期の雨は油断すると一週間も降り続いて、土や鉄錆になって窓の隙間から忍び込んでくる。毎日変わらない湿っぽい匂いの中で寝起きしていると、今年の梅雨は永遠に続くのではないかという気にさえなる。そうでなくても雨は昔から好きではなかったけれど、この雨が上がった後にやってくる夏を思うと、僕を差し置いて巡る季節の無神経さに腹も立つ。
「雨の日早退法」のことを憶えている。高校生の時、僕は雨の日には四時間目の終わりで早退できるという革新的な制度の推進者で、それを審議した翌年の梅雨には早退時間を午前八時に繰り上げる改正案を提出した。これに「登校」の定義を家の玄関を出た時点とする閣議決定を組み合わせることで、国民はレインコートの自転車通学と低気圧の中での授業から解放される。議場は放課後の教室の窓際で、出席者は僕と彼女の二人だけだった。彼女は僕の向かいの席に座って、にやにや笑いながらひとしきり僕の法案趣旨説明を聞いた後、ぎょうぎょうしく手を挙げて言った。
 ――はい大臣。朝八時早退を義務化した場合、梅雨の時期にはわたしに会えなくなりますが、代わりのおはなし時間の確保についてはどのようにお考えですか?
 そんな時間は僕たちにはいくらでもあった。適当に地元の大学に進学し、適当に地元で就職するまで、僕たちは朝から晩まで一緒にいた。大学の四年からは一緒に暮らした。世間体もあって収入が安定してからということにはしていたけれど、結婚の話もしていた。
 僕たちは確かに幸せの只中にいた。失ってみなければ気付けない、なんていうのは嘘だ。犬が吠えて大判小判の場所を教えてくれる昔話のように、僕たちの足元を掘れば幸せが湧き出てくることを怖いくらいによく分かっていた。欲を出して躓くことのないように、僕に抱えきれる分の幸せだけを離さないように彼女との日々を生きた。僕にとってのそれは例えば、大学の帰りにファミレスで彼女と食べる遅い夕飯だった。
 ただ、昔話の続きがどうだったかなんてことは考えもしなかった。
 幸せを教えてくれる家族は、突然いなくなった。
 灰だけ残して。
 僕たちの物語に、隣の意地悪なお爺さんなんてものはいない。だからこれは、ただ理由もなくいなくなった彼女と、全てをなくして誰を恨むこともできない僕の歌だ。
 彼女と二人で暮らしていた家に、僕は今でも一人で住んでいる。広い出窓と畳の部屋のある、安アパートの二階の角部屋の六畳二間だ。出窓の外は小さな公園になっていて、低いフェンスに沿って桜の木が点々と植えられている。今はすっかり葉桜になっているけれど、春に桜が咲くたびに彼女は出窓にかじりついて桜を眺めていた。
 去年の春の終わりが、彼女の命日だ。
 去年の夏はないも同然だった。警察と葬儀屋がかわるがわる来て、面白いくらいの手際で彼女を連れていった。説明は何一つ頭に入らなかった。僕は操り人形のように通夜に行き、葬式に行き、火葬場に行き、家に帰ってきた。墓に行った。彼女のおやじさんが僕の肩を叩いて何かを言った。気がついたら八月だった。
 僕の手元には灰さえ残らなかった。
 秋が来て、冬が来た。春が来たことが信じられない。この家に、大切な人と一緒に住んでいた時間のあったことがどうしても信じられない。そんなことがあったのだとしたら、今はなんだ? 世界は初めからこうだった。僕は初めから一人だった。そう思ってやり過ごそうとした。
 無理にもほどがあった。
 夏が来る。彼女のいない夏が。慌ただしく過ぎた去年の夏とは違う、彼女の不在と一人でじっと向き合わなければならない夏だ。
 だから僕は、窓に風鈴をつけた。真夏にふさわしい、金魚の絵のついたガラスの風鈴だ。そうすれば季節を先取りできる気がしたから。夏から早く逃げられる気がしたから。
 遠くで、何かの弾ける音がした。
 夕闇が忍び寄ってくる。それは決して派手な音を立てて訪れたりはしない。世界はいつも僕の目の届かないところで、僕のまわりのものを盗み取りながら勝手に動いていく。部屋の隅から、色を。湿っぽい空気から、熱を。彼女の記憶から、手触りを。それなのに僕は動けない。忘れた方がいい、という強がりに足を取られて、頭の芯が痺れている。夕闇の後には、夏がやってくるというのに。
 遠くで、何かが舞った。
 あのとき彼女のおやじさんは何と言ったのだろう。「君のせいじゃない」だか、「娘によくしてくれてありがとう」だか、それとも「新しい人生を見つけてくれ」くらいは言ったかもしれない。本当にどうでもいいことだった。だからこれも全部、僕が後から勝手に想像した台詞だ。もし「新しい人生を見つけてくれ」だとしたら、これほど空虚な言葉もない。僕がそう受け取るのを分かって、だからこその言葉だったのかもしれないけれど、一年経っても僕はそんなものは見つけられていないし、見つける気もない。人としては情けないと思いながら、彼女への未練に殉じて沈んでいこうとする自分のことを恋人としては密かに誇らしく思っている。
 窓の外を、桃色の光がかすめた。
 不意に、そちらに意識が吸い寄せられた。出窓に足を向けた。毎日カーテンを開け閉めしていたのは彼女のいた頃の話で、最後に彼女が開けたから今も開いている。雨は止んでいた。出窓に手をついてガラス窓を開け、夕闇の中に大きく身を乗り出した。

 六月の夜空に、桜が咲いていた。

 アパートの二階の角部屋。窓の外には公園があって、フェンスに沿って桜が植えられている。その黒々とした梢に重なるように、少し早い夏祭りの花火が桃色に広がっていた。
 外の世界の人々にとっては、それは木に遮られた中途半端な花火だっただろう。しかしその時、出窓にかじりつく僕には、それはまるで枯れ木に花が咲いたような、失ったものが戻ってくる光景だった。灰になったものが、枯れ果てた僕の心と出会い、もう一度鮮やかな時間に変わる花火の夜だった。
 いつも彼女が窓から桜を眺めていた、春。
 彼女の見ていた景色。彼女のコロンの匂い。腕に余る幸せを掘り出さずにおいて、その上で踊っていた僕たちの足取り。
 全部、全部、戻ってくる。
 ――梅雨の時期にはわたしに会えなくなりますが、どのようにお考えですか?
 会えるさ、この花火があれば。

          ◆

 それは、彼女がいなくなって最初の、彼女を思い出す夏だった。
 夏の間に、花火は何度か上がった。梅雨明け前の七夕祭り。夏の初めの市民祭。公園で近所の子供が振り回す花火さえ、僕に彼女の記憶を映してみせた。花火の弾ける音が聞こえるたびに、僕は出窓に駆け寄って葉桜越しに空の花弁を探した。季節外れの桜を眺めながら、彼女のことを考えてすごした。
 七月になり、八月になった。
 八月末の納涼祭の花火を僕は待っていた。出窓を開け放して、さっき思いついて買ってきたラムネをちびちび飲んでいた。外では川の方に向かって歩いていく人がちらほら見える。そこから花火が上がるのだ。現地は大混雑しているはずだったから、僕は最初から家で花火を見るつもりだった。
 どよめきの気配が、遥か遠くから伝わってきた。
 花火が上がる。上空で玉が開いて火薬が広がれば、丸く開いた色とりどりの火花が公園の桜の梢にかかる。そうすれば、彼女との思い出は何度でも鮮やかに、僕の前に蘇る。その時を待っていた。
 不意に、風鈴が鳴った。
 ぎょっとして上を見た。僕のつけた金魚の風鈴だった。出窓から風が吹き込んだのか、短く澄んだ音を立てた後、風鈴はそれきり静まり返った。それにしても、僕はどうしてこんなところに風鈴をつけたのだったか。
 夏を、早く終わらせるため。
 花火が上がった。金属酸化物の燃焼する光が飛散し、重力に引かれて落ちた。それきりだった。僕は彼女の笑う声をその破裂音に重ねようとした。この夏何度も思い返した彼女の声。何度も出窓で思い描いた彼女との暮らし。新しいものは何もない。火花が燃え尽きると同時に、思い出も色を失って吹き消された。次の花火が上がった。
 この窓から見える景色だけは、いつまでも春のままのはずだった。
 夏に咲く桜という考えのおかしさが唐突に意識された。夏の風物詩を無理やり春に結びつけて、記憶の中に逃げ込んでいる。しかしそれも永遠には続かなかったのだ。花火が終われば、灰がなくなれば、もう枯れ木に花は咲かない。そうすれば――僕は、何を生き甲斐に生きていけばいい?
 窓辺でたたらを踏んだ。幸せが足元に埋まっていないことが今更ながらに思い出された。
 お願いだ。
 いつまでも春にいさせてくれ。
 灰だけでもいい。僕が彼女を忘れていくことを許さないでくれ。
 花火が上がった。続けて二発。二発分の灰が風に吹かれて消えた。
 夏に縋るように、握ったままのラムネの瓶を口に運んだ。空になった瓶だけがそこにはあった。
 爆発的な焦りが胸を満たした。出窓から飛びのくように離れ、部屋を飛び出す。アパートの階段を駆け下りて自転車のスタンドを蹴り上げ、川に向かって猛然と走り始める。
 花火が上がるところへ。花の生まれるところへ。
 遠くで花火は上がり続ける。火花が丸く弾けるたびに、パッ、パッ、パという音が時計の鐘のように心臓に響く。彼女を思い出すためのよすがが、そのひとひらごとに使い尽くされていく。
 夏が終わっていく。
 川に近づくにつれて、道には人が増えていき、交通規制の三角コーンとバーを見るようになった。僕は自転車を降りて、ハンドルにもたれかかるようにして人混みの間をふらふらと歩いた。喉が渇いて、通りかかった屋台で瓶のラムネを買った。炭酸にも構わず一気に飲んだ。空の瓶が手元に残った。涙が出た。
 おぼろげな足取りで、人波を抜けて河川敷に出た。
 河川敷は三角コーンで封鎖されていた。がらんとした、数台のトラックが停まっている他は誰もいない河川敷があり、その先には世界の裂け目のような真っ黒な水面があり、その遥か向こうの対岸に、
 あれっぽっちのものが、本当に、花火の発射台なのか。
 甲高いうなりを引いて、鋭い光の軌跡が空に上がった。上がった先で消え入るように見えなくなり、次の瞬間、幾百の火花は巨大な球形を取って、枝もない夜空に咲いた。
 それはただの火なのに、
 彼女はもういないのに、
 キレイでなんかあるはずがないのに、
 燃え尽きながら降ってくる光を、次に上がった花火を、その次に上がった花火を、空っぽになった心で見つめていた。
 ここから先へは行けない。花火の生まれるところと僕との間には果てしない川面があり、彼女はその向こうにいる。遠く遠くにいる彼女はきっと泣いている。悲しいことは悲しいと感じていいのだと、僕に教えるために。その僕の目の前で、宿るべき木もない、彼女の記憶を蘇らせもしない、夏の最後の花火が上がっていく。
 花が咲いた。
 花が咲いた。
 いつかまた、こうして彼女のことを思い返す季節が来るだろうか。枯れ木に花を咲かせるには灰が必要だ。これからの僕の人生が、使いきれないほどの灰になった頃に、また。その時のために生きよう。結局それは彼女を想って生きることなのかもしれないけれど、僕はそれで生きていけるから、どうか心配しないでほしい。君も遠くにいる間、元気で。
 ――――さよならだ。
 僕は自転車の向きを変えた。花火の生まれるところに背を向けて、人波の向こう、彼女のいない家へと歩いていく。ふらふらと、おぼろげに、しかし何かをどこかに預けてきたように軽く。空っぽの心にほんの少し積もった、まだ温かい灰だけを抱えて。




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