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美術館と私

日々、音に触れる仕事に追われて、心も身体も疲れてしまったある時、ふいに美術館へ行った。はじめは、ただ音のない静かな場所を求めてそこへ辿り着いたのだけど、管理された空調と空間。しん、と鎮まる館内。足音に注意してそっと歩きながら絵を覗き込むと、時代を、時空を超えて向こう側の世界へと、あるいは、自分の心の奥底を旅することができる。

額縁に切り取られたもうひとつの日常は、この窓枠の向こうにひっそりと、でも確かにあるのだ。日々の雑音から逃れて自分を癒すため、気づけば私は度々そこへ訪れるようになっていた。

先日、少し足を伸ばして以前から気になっていたところへ。数々の作品に迎え入れられて、いくつかの部屋を進み、さらに中庭を観ながら廊下を渡って、エレベーターで二階へ上がると、薄暗い廊下。そして導かれるようにしてその部屋へ入った。隅に息をひそめていた学芸員は、私とその絵を二人きりにするため、そこにいながらにして、すっと気配を消した。

一面に広がる水色。それを囲む窓、曇りの空、深緑色の木々とそれらの影が仄暗く揺れる。
その絵と二人きりになったと思っていたら、いつの間にか私はそこに溶けて、ひとつになっていた。音のないその世界には、色はもちろんのこと、温度も、言葉も、存在していた。ひとたびそこへ身を置くと、心の声が喉の奥から疼き出して脳内に響き渡っていく。

耳を澄ませば、遠くからほんの少し外の世界の気配がする。でも、私を脅かしたりはしない。私は静寂に守られる。そうすると、忘れかけていた芸術へ対する情熱や感動を思い出すことができるのだ。

とうてい使い切ることがないと思っていた分厚い日記帳も、旅へ出ることによって思い出たちで埋まっていった。私は何もしていない、何の役にも立っていない、なんてことはないのだ。意味があるか無いかは別として、日々考え、悩み、時には後ろを振り返りながら、前へ進んでいる。才能もない、ただの人。でも大丈夫。立派な芸術家になれなくたっていいよ。

なりたかったけど。



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