◇感受性、というもの

感受性が強いね、としばしば言われます。感動しやすいんだね、という表現をされたこともあります。そしてそれを、「良いことだ」「才能だ」と仰ってくださった方もいる。

実は長いこと、「感受性」という言葉にピンと来ていませんでした。感じ、受ける、性質……ってなんだ?と。
感受性が強いね、と言われるのは、大抵わたしが泣いているとき。だからわたしはそれを、≒「涙もろい」として捉えていた。

わたしはそんな自分が、大嫌いでした。

泣き虫で、弱虫で、感情のコントロールもできない、何かにすぐ左右されてしまうような、芯のない、自分。

子どものころは特に、しょちゅう風呂で泣き、お手洗いで泣き、布団の中で泣いて、わけもわからず感情を発散させていたと思います。
今でこそ回数は減ったけれど、強くなったからではなくて。多分、それだけ迸る感情やエネルギーが、自分の内に存在しなくなってきたのでしょう。

だから、外的な要因があれば相変わらず泣きます。誰かの悲しみ、喜び、苦痛、幸福……あまりに強く反応してしまって、「本人以上に本人らしい」と言われたりもする。
たとえ自分にまったく関係のない事柄でも、感じ取ればぐっと来てしまって、ニュースなんかを見てて苦しくなることも多い。嗤いを笑いとするバラエティ関係も、おそらく似たような理由で見られなくなってしまった。

この先、もっとダメになっていくと思います。ますます過敏になって、見られなくなるもの、触れられなくなるもの、きっと出てくる。

でも。一方で、こんな性質のおかげで、得たものもあるんです。
去年12月に、とあるギャラリーで行われたアートコンペを見にいきました。応援している作家さん方が参加していたからで、集った作品は160にも及んでいました。
160もの作品がある空間って、はっきり言ってパワーがすごいです。肌がびりびりするのを感じたほど。

そんな中の、とある1枚。花びらを咥え、正面を見据える女性の絵。見た瞬間、動けなくなった。確かに、傷を思わせる表現や血を思わせる赤、カッターらしき刃が映ってはいたのだけど……痛みとか苦しみとか、そんな感情も言葉も自覚するまえに、

溢れようとする涙を、

堪えていた。

何が起きたか正直分からなくて、「感情にキた」としか、表現できなかったんです。
一旦その絵から離れ、展示されているすべての作品をじっくり眺め終わっても、頭から離れることがなかった。そのコンペでは4つ作品を選んで投票することになっていましたが、わたしは真っ先にその作品へ一票入れました。
以来、その作家さんとは交流ができて、新たに作品・作家さんに出会うきっかけになったりしました。

ささいなことにも反応してしまうこの性質。圧倒的にしんどいことの方が多くて、投げ出したくなったりもするのだけど……またもし、こんな出会いがあったとしたら。
そう思うと、ちょっとだけ、救われる気がします。