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物心ついた頃からについて(誕生から幼児頃迄)


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まず、私は昭和50年代・大阪南部生まれで、一人っ子。
とにかく背が高く色白で肌の強い、
頭髪が淋しい父と
自称『若い頃は遊びまくった』という
生まれは大阪市内、思春期後期は大阪北摂で育った、
多分普通の母の間に一人っ子として生まれました。
※後から聞いた話、本当は6歳ほど離れた弟が母のおなかにいたそうですが
忘れ物をしたらしく、お空へ戻っていったそうです。

私は、

生まれた日のイメージ

予定日より1週間程遅れて、
24時間陣痛を迎え、雷の鳴る日に
へその緒が首にぐるぐるで
気絶して生まれたそうです。

現代なら医学も発達していますが、
当時は脳のMRIやCTなども
『白い巨塔』レベルの大病院ならともかく、
かかりつけの町の産婦人科にはなく、
大きく生まれたにもかかわらず、小さな子たちと一緒に
保育器ルームにいたそうです。

本当は小さな保育器にビチビチに詰まっていたそうです。

運よく退院できたものの、母は私が3歳になるまで
何かしらの脳や機能障害が出るかもしれないと
ビビらされていたそうです。

これまた運よく、考えることや話すこと、運動は苦手でしたが
成長することができました。

私が住んでいた家には2件繋がった長屋、しかも隣人は
父方のいとこ(嫌い)で、お風呂がありませんでした。
トイレも外にあり汲み取り式でした。
小さなころはそれが普通だと思っていましたが、
幼稚園や小学校低学年になり、お友達の家へ遊びに行くことが
多くなります。

そこでまず、生まれて初めてのカルチャーショック。
トイレが家の中にあり、しかも水洗じゃありませんか!
両親の祖父母の家も汲み取り式だったので
まるでお店のようなトイレにびっくりしたものです。
でも、当時JR大阪駅のトイレ
(よく母方の実家に電車で行っていたので知っている)が
我が家のものよりも、
もっと恐ろしいもので比較していました(ぜひググって欲しかったのですが、見当たりませんでした…)
当時の大阪駅のトイレ→正円の黒いゴム?製で、
その正円の両サイドに足を乗っけるところがあり
トイレの穴がゴムのバッテン切れ目で、
流れる水も少ないくせに勢いよく『ずごっ!』と音を一瞬立てて、
まるでこちらをも吸い込みそうだったのです。

それよりマシでよかった~とは思っていましたが、
長屋で廊下もない3K、楽しいおしゃべりも隣の部屋にいる母に筒抜け。
逆に、当時ハードロックにはまっていた母はいつも
PVやベストヒットUSA(録画)など見ていたので、
『あなたのお母さんおもしろいね』と友達によく言われたものです。

なので、だんだんとお友達は家には呼ばなくなりました。
お友達の家には図々しく行ってましたけどw

丁度このころファミコンのスーパーマリオが発売になり、
ミーハーな父は私のことを思ってか、自分がやりたいからか
買ってきて、あれよあれよと我が家は
男の子たちのファミコンたまり場と化してしまいました。

そんなこんなもあり、遊ぶときは決まった女の子数人か、
近所の年下の姉妹たち。もしくは母でした。

母は彼女が若いころには珍しく、
当時京都の美術短大油絵科に進んでいたそうです。

なので、母とおうちで遊ぶときは
もっぱらお絵描きや塗り絵、ひらがなドリルなど。
お絵描きは『どっちが似てるかバトル』を
本気でしては、げらげら笑っていました。
ちなみにお絵描きのお題は芸能人やアイドルなどの実物のスターだったので
幼児の私にはかなりハードルが高かったのでした。

そして、ひらがなドリルも特に一緒にすることはなく、
一人っ子特有の一人遊びの延長でしていたので、
幼稚園入園児にはひらがなは読めていました。

貧乏でも母がシルバニアファミリーやバービーちゃんに
憧れていたので、
ホンモノではないですが、
リカちゃんや3年2組の仲間たち
(80年代イケてるファッション版シルバニア)を買ってもらっては
もちろん一人で遊んでいました。
専用ハウスなどは母方の祖父母からのお小遣いで
買ってもらっていたのですが、
やはり子供。
もっともっと欲しくなるのです。

基本インドアなので、お人形や、当時はやっていた漫画の模写などして友達と遊んでいました。

でも買えないので、尊敬するノッポさん(すごく工作が好きでした)を
見習って、お菓子などの空き箱で
家具などを作っては友達のところに持って行って
遊んでおりました。


(小学生~編に続く)


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