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銀河の扉




【アークトゥルスの宇宙】



私はアークトゥルスから来たのだということを、言われたことがある。私自身は、その星にいたような気がするわけでもないし、記憶のようなものがあるわけでもない。ただ、自分はそういう種族に属するのだろうなという気は何となくして、そのことには、何だか泣きたくなるくらいの懐かしい感覚がある。

マヤでは、私たち地上の人間は、大地からだけではなく、星からも来ているというのだそうで、だから身体は地球から来ていても、魂がどこかの星から来ているというようなことがあるのかもしれない。占星術みたいに、ある星の影響を受けて生まれてきたということではなくて、魂の種族のようなものとしてだ。

私たち人間は、地上に生まれてくるときに、地上で何かをしようと思って生まれてくる。生まれたあとには、自分が何を決めてきたのかは忘れてしまうのだけれど、それは何か使命があるというような感覚として、ずっとつきまとっていたりはする。そして、このアークトゥルスからやってきた人間だという感覚は、何かしらその使命みたいなことと関わりがあるような気がする。

数日前に、鞍馬山の天狗を解放する封印解きセッションをやったからなのか、何だかアークトゥルスの記憶が起きてきているような気がする。鞍馬山といったら、サナート・クマラが降りてきた場所とされていて、そのサナート・クマラというのは、金星を経由してアークトゥルスから来たのだという話がある。それと関係あるのかどうかはわからないのだけれど、アークトゥルス人といったら、鞍馬神社の仁王門のところにいる仁王みたいな姿の人が、青鬼みたいに青い肌をして、イメージの中に出てくるのだ。それがあるいは、鞍馬山の天狗と言われる存在なのかもしれないけれど、私にとっては、アークトゥルスの星の人だと言ったほうが、しっくりする。

私がコンタクトするアークトゥルスの人は、いつも何だか間抜けな顔をして、ガラガラ声で歌を歌っている。アークトゥルスの人間は、どんなことでも表現にしてしまうのだと彼は言っていた。アークトゥルスは戦わない、アークトゥルスは歌うんだ、と。それは、私たちの感情が持つ力を使った芸術だ。どんな感情にも、世界を変える力がある。感情とは、まさに世界を変える力そのものの表現であるとも言える。その力を使う術をアークトゥルスは知っていて、それを地球で使うために、アークトゥルスは地上に転生する魂を送るのかもしれない。

そしてそれこそは、光と闇を統合する技なのだ。悪意というもの、人を傷つけることを喜ぶ意識が、地球上で連鎖的に拡大していって、世界は今滅びる危機にさえある状態だ。だけど、アークトゥルスは悪意に出会ったときに、それと戦うのではなく、アートに変える。何故なら、悪意というものは、いつも私たちを新しい領域に踏み出させるようなところがあるからだ。傷つけられた感情のすべてを、そのままに受け入れて、そのままに表現するのが、アークトゥルスのやり方だ。そして、そうすることによって、私たちは免疫がついて強くなっていくように、強くなっていく。

だから、アークトゥルス人は、いつも何だか間抜けな顔をして、ガラガラ声で歌っているのだ。身体中ボロボロに傷つきながら、歌を歌っている。それで彼らは、鬼のように強くなっていく。

悪を排除する必要など、本当はないのだろう。私たちは、悪がなければ幸せに暮らせるのにと思っているけれど、悪を排除しようとしてきたからこそ、私たちは悪意のために世界を滅ぼされそうになっているのかもしれない。自然には、食ったり食われたりもあるけれど、それによって循環ができ、大きな調和ができている。その連鎖を止めようとしたら、この大きな調和もまた崩れてしまうのだ。

変化が必要なとき、次のステージに移ろうとするとき、私たちを導いていくのは、実は悪というものだったりする。何もなければ、私たちは今いる快適な環境から出ていこうとはしない。だけど、次のステージに移ろうとするときには、何かしらそこにいられなくなるような災難が起きる。そのとき、悪意そのもののような人物が、私たちの前に現れたりもする。

そういうとき、アークトゥルスは、湧き上がってくるすべての感情の力を使うのだ。それによって、新しい現実を作り出すのが、アークトゥルスの最高のアートだ。

それは、どちらが正しいとか、どちらが上だとかいう二元的な世界を超えたところにある。地球は今、そこへ向かっていこうとしている。二元的な対立があるところを、8の字状の力の流れに変えていく。それは、合気道のような、戦っているようでいて、踊っているような、そんな動きだ。そうやって、対立が次々と循環する流れに変わっていく。

あれは、鞍馬山の天狗だったのだろうか? あるいは、そうなのかもしれない。牛若丸に武芸を教えた鞍馬の天狗は、真正面から戦うのではなくて、素早く跳ね回って、敵をグルグルまわしてしまうようなやり方を教えた。それで弁慶は、倒されたのではなくて、仲間になってしまった。ぶつかってくる敵をグルグル回して、味方にしてしまったのだ。

鞍馬山の存在を解放したとき、出てきたのは宇宙の女神のような存在だったのだけれど、それから数日して、あの天狗のようなアークトゥルス人が出てきたような気がする。宇宙次元は、多極的な世界なのだ。世界は今、滅びる危機を避けるために、深い転換を生きているところだけれど、それで今、アークトゥルスの宇宙が地上で開けてきたのかもしれない。どうも何だか、そんな気がするのだ。


鞍馬神社仁王門の仁王像


鞍馬天狗


2023年5月13日


【敵を倒すための戦いと自分を守るための戦い】



昨日の【アークトゥルスの宇宙】という投稿で、「アークトゥルスは戦わない」と書いたのだけれど、アークトゥルスはまったく戦わないというわけでもない。ただ、相手を倒すための戦いはしないのだ。彼らは、そういうことには興味がない。ただ、邪魔されたときには、戦う。というか、邪魔されないような状況を作り出す。それが、彼らの戦いなのだ。だから、それで相手が倒れてしまったらそれはそれだけど、倒そうと思って戦うわけではない。だから、アークトゥルスの戦いは、創造的であり、アートでさえある。

相手を倒すために戦ったら、必ずしっぺ返しがくる。それは、害虫を駆除してしまうようなことと似ている。駆除してしまったあとに、何かしら問題が起こる。そうなって初めて、害虫といわれるものも、役に立っていたのだということに気づく。すべてのものには意味があるのだ。たとえ私たち人間がそれがどんな役に立つものなのかを知らなくても、すべてのものにはちゃんと意味がある。その大きな力を信頼していたら、どんなものも倒してしまうべきではないのだということがわかる。

この2000年くらい、地球の人類は、相手を倒して支配するための戦いを続けてきたのだ。それは、地球上のある一点から始まって、連鎖的に広がっていった。倒された人間は、今度は相手を倒そうとして戦い始めるからだ。倒してしまわなければ、自分が倒されるという恐怖をつねに持つことになるので、いつも相手を倒そうとしている。だから、異なるものの間に調和や共生関係が生まれるのではなく、どちらが支配するかの戦いが生まれる。これは、戦いの連鎖を作り出す。

アークトゥルスは、そんな戦いの時代を経験したこともあったのかもしれない。とにかく彼らは、調和と共生関係を作り出すための戦い方を、いつの時代にか身につけた。彼らはけっして戦わない人々ではない。戦おうと思ったら、そうとうな戦いもやってのける。ただ、共生関係を作り出す戦い方を皆が心得ているので、もう大きな戦いになることはほとんどない。

私がアークトゥルスから学んだのは、すべての感情の力をそのままに使うことだった。感情は、自分を守る必要があるときに、最大の力を発揮する。恐怖も怒りも、哀しみも憎しみも、すべてはそのためにある。だから、ただその力を抑えたり、変えたりすることなく、そのままに湧き出させればいい。逃げるなり、震えるなり、泣き叫ぶなり、怒鳴るなり、感情は自分を守る行動へと速やかに導いていく。多くの場合は、それで問題は速やかに解決する。

相手を倒すための戦いをする人々は、感情を支配されてしまっている。支配するとは、まさにこの感情の力を使えなくすることなのだ。それは、自分を守る力だからだ。支配するとは、自分を守る力を奪うことにほかならない。その結果、感情を支配されてしまった人々は、戦いになると相手を倒そうとするのだ。力を奪って支配してしまわないと、自分の身が危ないように感じてしまうからだ。

だから、相手を倒そうと戦う人の中には、必ず抑圧された感情の力がある。そういう人々から戦いをしかけられたときに、湧き出てくる感情をそのままに表現すると、それが相手の抑圧された感情と共振する。それが起こるとき、まるで不思議な力でも働くように、調和が生まれる。アークトゥルスの戦い方とは、そうしたものだ。


俵屋宗達の風神雷神図

2023年5月14日


【銀河の扉が開く】



私が宇宙存在というものを意識し始めたのは、10年ほど前のことだ。ちょうど2012年の総選挙のあとで、日本の政治があまりにも腐敗していることを見せつけられて、私は地球人であることも恥ずかしくてたまらない気持ちだった。地球人はここまでバカなのかと思って、もう地球から離れていってしまいたかった。あれからいろいろなことがわかっていって、あのときはまだ、政治の闇のほんのごく一部を見たのにすぎなかったことが、あとになってわかったのだけれど。

第二次世界大戦後、地球人は核技術を持つようになり、いよいよ危険な方向へ向かっていった。そのためなのか、宇宙人とコンタクトしたという話は増えていった。実際に宇宙人の姿を見たという人もいれば、夢のような状態で宇宙人と話したという人もいた。ほとんどが、子供のような大きさの、シルバーグレーの肌をした、目が大きな存在で、彼らは米軍のところなどによく現れていた。虐待されている人たちのところに現れて、意識の力を使うことだとか、宇宙的な次元のことだとかを教えてもいた。そうした人たちが語る宇宙存在の話は、たしかに地球の意識の次元をはるかに超えたような不思議な話だった。

クロップサークルを作っているのも、こうした宇宙人たちなのだという話もあった。意識エネルギーの波動のようなもので、麦畑の上に一瞬にして見事なパターンができあがるというのだけれど、クロップサークル自体が非常にパワフルな波動を出すフィールドで、それによって、歪められてしまった地球のエネルギーを修復しているのだということだった。

311の後にも、小さなシルバーグレーの存在たちが、地球を助けているイメージを受け取っていた人たちがたくさんいた。あの頃、世界各地で行われていた祈りの会で、そうした存在たちが来ているのを感じた人も少なくなかった。彼らは、祈りのエネルギーを集めて、地球を守るネットワークをこしらえているように思えた。あの頃は、地球外の人たちが地球を助けてくれていると考えるのは、たとえそれが確かな物質的な手応えを持ったものではなかったにしても、それだけを支えにして、ともかくも進んでいけるというような希望の感覚があった。

それが、2012年の総選挙のあとで、あの事故が実はもっと深い政治の闇から起こっていたことが見えてきたのだ。私はもう地球人であるのも恥ずかしくて、地球から離れていってしまいたかった。あの頃、次元の概念というものを知ったところだったので、意識上で3次元の世界から出て、5次元、6次元と順に上がっていって逃げていこうとした。5次元でも6次元でも、まだ息苦しかった。それで、一気に9次元まで上がってみた。すると、とつぜん自分が宇宙の真っただ中に漂っていることに気がついたのだ。

それは、意識の中でのイメージにすぎなかったのだけれど、まるで現実のことのようにリアルだった。意識の世界とは、ときに現実よりもリアルなことがある。身体はいつもの自宅の部屋にいることはわかっていながら、現実に宇宙空間の真っただ中にいるとしか思えなかった。

もはや地球の重力圏を遠く離れていて、戻ることもできないのがわかった。あれほど離れたかった地球だけれど、何の引力も感じないということに、恐ろしい孤独を感じた。こんな宇宙の真っただ中で、一体どうすればいいのだろう? もし、ほんの少しでも地球に愛が持てれば、その引力で戻ることができるのかもしれないと思った。だけど、まったく何の愛も感じなかった。

孤独のあまりに死ぬのじゃないかと思ったときに、私は彼方から星のような光が近づいてくるのを見たのだ。宇宙船が猛スピードでこちらへ近づいてくるかのようだった。その光から、「待ちなさい!」と必死に呼びかけているような声が聞こえてきた。声というより、テレパシックな念のようなものだった。それが、その近づいてくる光から来ているのを感じた。

すると次の瞬間、私は宇宙船の中にいて、シルバーグレーの人たちと一緒に座っていたのだ。それもすべて、意識のイメージの中でのできごとだけれど、まったくリアルな感触をもっていた。実際に、意識が宇宙まで飛んでいて、宇宙船に乗っていたかのようにだ。私は、宇宙で迷子になっていたところを、このシルバーグレーの人たちに救い上げられたのだ。そうでなかったら、どうなっていたのかわからない。足元には大きな窓があって、そこから地球が見えていた。窓ではなくて、あるいはスクリーンだったのかもしれない。その地球は、青や緑の色がゆっくりと動いていて、とても美しかった。衛星から見るような画像と似てはいたけれど、あれよりもはるかに美しかった。それを見て、地球が生きているのだということを、私は感じた。それは、地球の生命の動きの美しさそのものだった。

「ごらん。これが君たちの星だよ。美しいだろう? 僕たちは、この美しい星がとても好きなんだよ」とシルバーグレーの人が言った。私にとっては、それは信じられないようなことだった。地球人である私が、地球が嫌で逃げてきたというのに、よその星の人たちが、地球を愛しているというのだ。この人たちは、何だってよその星のことまでこんなに心配してくれるのだろう? それは、まるであり得ないようなことに思えたけれど、この人たちにとっては、当たり前のことのようだった。困っている人たちがいたら、助けるのは当たり前じゃないかというのだ。そして、そういう疑問が出ることの方が、この人たちにとっては驚くべきことのようだった。

地球では、生き物は食い合い、殺し合っているのだ。それでどうして、この人たちは地球が美しいから好きだなどというのだろう? そう思ったとき、その答えは自ずと湧いてきた。生物多様性。地球の美しさは、まさにそれだ。この食物連鎖があるからこそ、地球はありとある種類の生物がバランスを取って生きている。殺し合いにもまた、意味がある。地球はそうした条件の環境で生きている、宇宙の中でも特殊な星なのだ。

しかし、地球人はあまりにも愚かなので、地球を壊してしまうのかもしれない。地球の歴史の中で、もう何度も繰り返してきたようなことを、また繰り返してしまうのかもしれない。だけど、無条件の愛というものを持っているこの人たちが守っているのなら、あるいは地球は危機を切り抜けるのかもしれない。それを感じたとき、それならやっぱり地球に戻ろうという気になったのだ。

宇宙人とのコンタクトというのは、肉体的に出会っているというよりも、テレパシックな意識の繋がりなのだと思う。意識の領域でコンタクトすること。遠隔リーディングや遠隔ヒーリングみたいなことをやってみたことがある人ならわかると思うけれど、意識の世界では時間も空間的な距離も関係がない。どれだけ離れていようが、まったく関係なく、繋がるときには繋がるのだ。そこには空間的な距離は関係がなく、ただ共振するものがあるかないかだけだ。だから、あのシルバーグレーの人たちが、実際に地球のまわりを宇宙船でパトロールしているわけではないのかもしれないけれど、とにかく意識の共振が起こり、意識の共有フィールドのようなものができるのだと思う。そして、それが宇宙船のようなものとして、イメージに現れるということなのかもしれない。

あれ以来、私は宇宙の人たちに助けられながら、地球上で生きている。この10年間に、世界はずいぶん変わった。地球外の人たちとコンタクトする人も増えたし、それで地球は集合意識的にも、宇宙の次元に開けていっている。それまでは不可能だと思えていたことも、実は可能なのだということが、徐々にわかっていっている。

もっとも、宇宙の人たちとコンタクトすることができなくなっていたのは、この2000年ほどのことにすぎないのかもしれない。縄文人もケルト人もマヤ人も、当たり前に地球外の人たちとコンタクトしていたという話がある。アボリジニたちなどは、つい最近まで普通にコンタクトしていたのかもしれない。だから結局、この2000年ほどの支配の時代に、私たち地球人は、その能力を忘れさせられていて、だから自分が住む土地を壊してしまうような、バカなことを平気でするようになってしまったのだろう。

それを思えば、今、地球の人類が危機に瀕しているときに、地球外の人たちが助けに来るというのも、ある意味当然のことだったのかもしれない。2000年前までは、地球のすべての部分で当たり前にあったことだったのだとしたら。それが徐々に少なくなっていって、危機的な状況にまでなったときに、何とかコンタクトを取り戻そうとする力が強くなっていくのも、当然の流れだったのかもしれない。

地球外とのコンタクトが閉ざされたとき、人々は上か下かで争い、ピラミッド型の支配構造を作っていった。だけど、地球外とのコンタクトとは、他の太陽の惑星の住人たちとのコンタクトだ。つまり、銀河系の世界との出会いなのだ。銀河とは、無数の太陽が渦をなして回転している世界で、そこにはどれが上も下もない。それぞれが己の太陽を持っていて、その間には、対等なネットワークが存在しているだけだ。だから、支配の時代になるとき、その星は外とのコンタクトを断ち切って、閉ざされた状態でピラミッド型の構造を作り出していくことになるのだろう。だけど、それはある意味不自然な状態なので、自ずともとの状態に戻っていくものなのかもしれない。

支配したりされたりの関係しか存在しないかのように、私たち地球の人間は思い込んできて、それ以外のものなど、あり得ないおとぎ話なのだと思ってきた。だけど、宇宙全体から見たら、支配したりされたりの関係性の方が、実は特殊なものであり、不自然なものでさえあったのだ。それは、進化の過程で通っていくプロセスなのかもしれないし、あるいは何かの特別な意味があって、あえてそのような体験をすることになっていたのかもしれない。微生物環境も、自然の生態系も、宇宙も、すべては共生関係でできており、自ずと循環して、調和を保ち続けるようにできている。上下関係のある支配構造は、そうした調和を保つ循環を遮断したところにのみ、成立し得る。

宇宙存在とのコンタクトとは、まさにそうした支配構造の外に出てみるようなことだと言える。その外に、一体どんな世界が広がっているのかを知ることができる体験なのだ。それによって私たちは、地球の世界が今あるような状態から、変わっていくことができるのを知る。それは、一種の成長の過程のようなものにすぎないことを、知ることができるのだ。


アンドロメダ銀河


2023年5月15日


【テレパシーとは嘘をつかないこと】



テレパシーを使うには、嘘をつかないことだ、とアボリジニが言っていたという話が、「ミュータント・メッセージ」という本に書いてある。この本は、アボリジニとともに生活した経験を持つアメリカ女性がその体験を書いた本で、著者はアボリジニたちとともに生活するうちに、テレパシーが使えるようになっていたのだそうだ。

アボリジニたちは、声は歌うためにあるので、話すためではないと言い、仲間うちの会話はほとんどテレパシーでやっているのだそうだ。アボリジニたちは、それを「頭で話す」と言っていて、それは言語を使った会話ではなく、意識を直接交流させるような会話だ。概念とか感情とかそういうものでやりとりするコンタクトなので、言語を超えている。「ミュータント・メッセージ」の著者は、英語ができるアボリジニ男性に通訳してもらっていたのだけれど、テレパシー会話ができるようになったとき、通訳なしでアボリジニの酋長と会話をしていた。テレパシーでは、アボリジニの言語も英語も必要がないのだ。

ところで、テレパシーができるようになるには、嘘をつかなければいいだけなのだと、アボリジニは言うのだ。心に隠すものが何もなく、開いているということが必要なだけなのだと。そうした心の状態であれば、誰でも自然にテレパシーが使えるのだと。

これは、チャネリングやリーディングでも同じことが言える。チャネリングもリーディングも、テレパシーと同様に言語を超えたコンタクトで、感情とか概念とかをダイレクトに受け取って読み取っている。だから、どういう言語を話す人であっても、日本人なら日本語でやりとりしている。それは、意識で受け取って、その内容を脳が言語化しているからなのだ。だから、人によってイメージで受け取ることもあれば、声で受け取ることもある。音楽が得意な人は、音楽で受け取ったりもする。それは、受け取る人の脳が、一番意識化しやすい形に転換しているからだ。

こうしたコンタクトが可能なのは、意識というものが、頭の中に閉じ込められているわけではなくて、実はインターネットみたいに絶えず外に向かって発信されているからだ。口では嘘を言っていても、本心の方が意識のネットワークに発信されてしまっている。だから、チャネリングやリーディングでは、その人の本心の意識を読み取ることになる。意識の領域とは、まったく嘘がつけない世界なのだ。自分を裸にする覚悟がなければ、入っていくことができない。だから、「テレパシーとは、嘘をつかないことだ」ということになるわけだ。

縄文人もケルト人も、当たり前にテレパシーが使えたらしい。縄文人もケルト人も、非常に広い範囲での交易をしていたことが知られているけれど、言語で交流していたのだったら、これは不可能だと思う。テレパシー的に会話し合っていたから、それほど広い範囲で交易し、友好を結ぶことが可能だったのだ。ケルト人は、ヨーロッパ全体で交易し合っていたし、縄文人は環太平洋全域に及ぶとも言われている。近代になって共通語ができる前は、地方ごとに別な言葉を話していたのだから、言語を超えたコミュニケーション手段を使っていなかったら、こんなことはとてもできないというのが、わかると思う。

現代の私たちがテレパシーを使うことができないのは、絶えず本心を隠すように育てられてきているからなのだと思う。泣きたいときに泣いてはいけないと言われ、恐いときに恐がってはいけないと言われて、私たちは育っていく。その結果、私たちは自分が本当には何を感じているのかさえも、わからなくなってしまっている。だから、意識のコンタクトに入っていこうと思ったら、そうした感情の抑圧を一つ一つ外していくプロセスが必要になる。

瞑想のときに、まず呼吸法で身体の力を抜いていくのは、それによって感情の抑圧を一時的に外すことができるからだ。私たちは、ある感情にとらわれているとき、その感情を抑圧しようとして格闘している。そういうときには、必ず身体のどこかに力が入っている。それは、何かから身を守ろうとするときに、自然に身体に力が入って、筋肉が収縮するのと同じだ。何か危険があると感じているときには、筋肉を緩めるのは恐ろしい。しかし、力を完全に抜いてしまうと、身を開け渡したような状態になる。この身を開け渡したような意識の状態が必要なのだ。そうなったとき、ある感情にとらわれることなく、意識を外に開くことができる。

神さまや天使、精霊、あるいは宇宙人とコンタクトするときも、やはり私たちはテレパシー的な意識のコンタクトを使っている。絶望的な状況に陥っている人たちが、よくこうした存在とコンタクトしているのは、こういうとき私たちは、もう何も守るものがないという心境になっているからなのだと思う。もう気取っている場合でもなく、隠すものなど何もないというような意識の状態になっている。私たちは、世間でうまくやっていこうとするとき、嘘でかためたような意識の状態に一番なりやすいわけだけれど、絶望的な状況になっている人は、もうそんなものは捨ててしまう用意ができている。だから、そういうときに、人は意識の世界に開かれて、神さまの声を聞いたり、宇宙人とコンタクトしたりできる意識の状態になるのだと思う。

だから、危機のときには、目覚める人が増えるのだ。日本では311のあと、意識の世界に目覚める人が増え、宇宙人コンタクトする人が増えた。3年前に奇妙なパンデミックが始まってからも、世間的な価値観から離れていく人が増え、意識の領域に関心を持つ人が増えた。それは、これまでの世間常識に従っている場合ではなくなり、社会的ステータスなど捨ててしまってもいいような心境になるからなのだと思う。

言語によるコミュニケーションでもそうだけれど、受け取る人が何をどう解釈するかは、その人の意識によって大きく左右される。テレパシックな意識のコンタクトだと、これがさらに強くなる。私たちは人それぞれ、世界とはこのようなものだというような概念を持っているけれど、意識のコンタクトをするとき、私たちは無意識にその世界観に沿った解釈をするのだ。だから、世界には悪い存在がいて、そうしたものから身を守らなければならないという世界観で生きている人は、何かしら怨念がついているとか、悪い霊がついているとかいうメッセージを受け取る。世界には悪いものなどはなく、すべてには意味があるという世界観で生きている人は、同じことでも、何かの変化のプロセスが差し出されているというメッセージとして受け取る。

宇宙人コンタクトになると、伝えてくる概念が高次の意識のものであったりするので、受け取る人がどの次元で受け取るかで、実にさまざまな解釈が出てくる。現在、地球の世界では、金銭による経済が普通だけれど、宇宙人コンタクトだと、そういう経済の概念ではとらえられない内容が出てきたりする。たとえば、愛によって豊かさが循環する、という概念を伝えてきているとき、私たち地球人はそれを地球の三次元的な概念で解釈して、「大金が配られる」というメッセージとして受け取ってしまったりする。これは、文化ギャップを理解していないと、とんでもない誤訳が生まれる、というのとも似ている。宇宙人コンタクトでは、次元ギャップを理解していないと、とんでもないチャネリングメッセージが出てきてしまうのだ。銀河連盟が宇宙船で地球に降りてきて、世界政府ができるというようなメッセージが、一時期まことしやかに伝えられていたこともあったけれど、あれもその類の誤解釈だったと思う。高次元の概念を、地球の三次元的な概念で解釈したために、世界政府だとか宇宙船が降りてくるとかいうような、何だか奇妙な話になってしまったのだと思う。

宇宙人コンタクトの話を書くと、悪い宇宙人はいるのかいないのかということがよく話題になるのだけれど、これは、「悪い」ということをどの次元でとらえるかによるのだと思う。悪い人というのは、つまり自分に危害を加える存在なわけだ。だから、その人を懲らしめるなり牢屋に入れるなり、追放するなりすれば、それで自分は楽になる、と思うような存在を、私たちは「悪い人」と言っている。

しかしこれは、自分の利益や自分の望みを軸にして考えたときにだけ出てくる概念なのだ。自分が進もうとしている方向をふさいで邪魔をしている人物を、私たちは「悪い存在」と解釈する。しかし、もっと視野を広げていくと、単に「悪い人」というのではない、別なものが見えてくる。悪い人と見えていたその人は、自分が進もうとしている方向に危険が隠れていることを知らせようとして、邪魔をしていた人なのかもしれない。あるいは、その人は自分が知らない可能性を見せようとしていたのだけれど、それが世間的に「悪い」と言われていることだったのかもしれない。あるいはその人は、攻撃されていると思い込んで、攻撃し返していたのかもしれない。そうした場合、私たちは何かしらその人から学ぶこともできるわけだ。つまり、「悪い」のではなく、学ぶ機会だという風に解釈することができる。

あるいは、その人は本当に悪い人、つまり意図的に人を傷つけようとする人なのかもしれない。その場合、その人は私たちを次のステージへ導くために、そうした役を演じさせられていることがある。現実は私たちの意識が作っていると言うけれど、私たちは、次のステージに行くときが来ているとき、何かしら背中を押してくれるようなできごとを引き寄せていることがある。こうしたことは、波乱な人生を歩んできた人なら、よく経験していることだと思う。悪意とも言えるような邪魔が入って、どうしても思ったようにならないときには、思ってもみなかったようなところへ導かれていくことがある。こうしたことは、あとになったら、あのときああなってよかったと心から思えるようなことだったりする。

世界を三次元的にではなく、多次元的に見た場合、「すべてには意味がある」と言われることが、まったく現実的にそのとおりなのだということがわかる。いいか悪いかは、何を目的にして進んでいるかによって違うわけだし、だから自分の目的だけではなく、もっと大きな世界が見えてきたときには、悪いと思えるものも、全体の循環の中で必要なものだということがわかったりする。

だから、いいか悪いかという判断は、三次元的な意識で現実を見たときだけに出てくることなのだ。そういう意識で見るからこそ、私たちはいつも戦ったり争ったりすることになる。そして、自分の目的のために戦ったり争ったりしているとき、私たちは身体に力が入っていて、心に隠すものがある状態になっている。その状態だと、テレパシー的な意識のコンタクトには入れない。だから、テレパシー的なコンタクトが機能するためには、「すべてには意味がある」という世界観を受け入れていることが条件になる。そうでない状態で意識のコンタクトを行うと、受け取った概念を誤訳することになり、奇妙なチャネリングメッセージになってしまうわけだ。

テレパシー的なコミュニケーションをしている宇宙人たちは、太陽系の外に向かって発信しているわけだから、銀河意識に開かれている人たちだということになる。自分の利益のために戦っている人たちは、自分の惑星での利害に夢中になっているから、そこまでとても意識が向かっていないはずだ。NASAがフェイク映像ばかり作っていて、どうやら地球軌道にさえろくに行けていないようなのは、まさにそのためなのだろう。アメリカ政府は地球での軍事的優位だとかお金の経済だとかの方が重要なので、地球全体のことにも意識が開かれていないのだ。それで、宇宙ロケットを打ち上げているふりをして、集めた税金を腐敗に使っていたりするのかもしれない。

その一方で、地球全体や銀河全体に意識が開かれている人たちは、たがいにテレパシー的な意識のコンタクトをしているわけだけれど、そこでは三次元を超えた意識のやりとりがある。だから、宇宙人コンタクトは無条件の愛の体験そのものなのだと思う。宇宙には愛しかないと思えるのは、おそらくはそのためだ。それは、善悪とか利害とか戦いとか支配とかの次元を超えた人たちの、銀河レベルのネットワークなのだ。


アボリジニの絵 dreamtime sisters ドリームタイムの姉妹

2023年5月16日


【アシュタル・シェランとは誰なのか?】



私がアシュタル・シェランとコンタクトすることになったのは、かなり偶然からだった。あの頃私は、アシュタルが人の名前だということも知らなかった。宇宙コンタクトの人たちが、よくその名前を口にしていたから、おそらくシリウスとかアークトゥルスと同じように、星の名前なんだと思っていた。そういう名前の星の話なんだろうと。

地球人でいるのが嫌になって、9次元の世界まで逃げていこうとして、宇宙の真ん中で宇宙船にひろい上げられて、地球に戻ってきたあとで、私はあのとき宇宙船で会った、あのシルバーグレーの肌をした宇宙人たちに、何とかしてまた会いたいと思っていた。あれ以来、ずっとテレパシックなコンタクトを続けていて、いろいろなことを教えてもらったりしていたけれど、どうしてもリアルに会いたいと思った。

それで、その年の夏、イギリスのクロップサークルに行くツアーに参加することにした。クロップサークルというのは、麦畑の中に、ある日とつぜん複雑な模様が現れる現象で、宇宙人が遠隔波動のようなもので作っているのではないかと言われている。ほんの数分の間に、まるで判を押したようにできてしまうというのだ。しかも、かなりパワフルな波動を持つフィールドができるのだという。その中に入っていったら、あのシルバーグレーの肌をした宇宙人に会えるんじゃないかと思った。それで、本当にクロップサークルの真ん中で宇宙人とハグするつもりで、そのツアーに行ったのだ。

クロップサークルへの旅は、不思議なことの連続だった。10日ほどのツアーは、私の人生を変えてしまうようなインパクトがあった。そのツアーは、ウィーンのクロップサークル研究者が企画して開催していたのだけれど、私はその人にどこか遠い過去の時代に会ったことがあるという気がしてしかたがなかった。その人に会ってから、私はアトランティスの過去のイメージを受け取るようになった。それは、私自身の過去の記憶であるかのように強く鮮明だった。ある事情から、地球人が自ら大陸を沈めてしまうような事態になったときに、私はこの人と一緒にアトランティスにいたのだという気がした。そういうイメージが、まるで自分自身の過去の記憶のように、くっきりと蘇ってきた。

あのとき、アトランティスを沈めようとする人たちを止めることができなくて、大陸が沈んでしまったときに、私は宇宙船に救い上げられた記憶がある。宇宙の真ん中で迷子になったときと同様に、気がついたら宇宙船の中にいた。そして、他の星の人たちにいろいろなことを教えてもらっていたような気がする。それから、新しくできた大陸に降ろされて、そこで新たに文明を作っていくことになったのだけれど、そのときの絶望的な気持ちを、私ははっきりと覚えているような気がする。何もない大陸で、ゼロから文明を作っていけというのだ。あれだけの高度なすばらしい文明を持っていたのに、それをすべて消し去ってしまった。こんなことはもう絶対にやめようと、一緒に降ろされた人たちと言い合った記憶がある。

そのクロップサークル研究者は、そうした記憶を持っていたわけではなかった。だけど、アトランティスの話が出たときに、あのとき一緒にいたとしか思えないような調子で、「ああいうことはもうやらないと、私たちは決めてきたんだからね」と彼は言ったのだ。それを聞いたとき、この人はあの場に一緒にいたのに違いないと、私は思った。そうでなかったら、こんなに確信を込めた口調で、そんな言葉が言えるはずがないと思った。

もちろん、こうした記憶は地球人類の集合意識として、共同で持っているような記憶なのかもしれない。しかし、そうした記憶を、まるで自分自身の経験としか思えないような近さと鮮明さで意識の中に持っている人と、そうでない人がいる。おそらくは、本当に自分の魂が過去の人生で経験したのかどうかということよりも、その記憶にどれだけ魂が共振するかということが重要なのかもしれない。とにかくそのことによって、私たちはこの地球での生で、ある役割を引き受けることになるわけなのだから。

そのクロップサークル研究者とは、何か解明しなければならないものがあるという気がして、ツアーのあとでもときどき会っていた。それで、あるとき話していたときに、彼のオーラの中には、「星の情報がたくさんついている」と、あるロシア女性が言っていた、ということを彼が言った。何なのかはわからないけれど、とにかくそう言われたのだと。それで私は、その情報を持っていって読んでもいいかと、冗談半分に聞いたのだ。彼は、何のことだかわからない様子で、「いいよ」と言った。私も、自分がやっていることがわかっていたわけではなかったけれど、彼のオーラの中に手を入れて、掻き出すようなしぐさをした。そして、掻き出したものを、自分のオーラの中に入れた。するとそのとたん、背筋がゾワゾワし始めた。何かとてつもないものが入ってきたのがわかった。まるで、多次元空間に身体ごと持っていかれそうな感覚だった。私はそれから、グラーツまで電車で帰らなければならなかったので、「あとで読むから、今はやめて!」と言った。何回か言って、背筋のゾワゾワは落ち着いた。それでとにかく家に帰り、持って帰ってきた「星の情報」をゆっくりと読み取ることになったのだ。

その晩は一晩中、何が入ってきたのかもわからないまま、ただマグネシム光のような強烈な光が炸裂しているようなイメージを見続けていた。それが宇宙的な次元の情報だということはわかるのだけれど、とても読むことができなかった。ただ強いまぶしい光が炸裂し続けていた。その光の炸裂に慣れてきた頃、北欧人のような大きな地球人のような人のイメージが現れた。それまで知っていたシルバーグレーの肌をした小さな宇宙人ではなかった。こんなに地球人に似た宇宙人もいるのかと思った。クロップサークル研究者が、地球人に似た大きな宇宙人もいるというようなことを言っていたことを思い出した。北欧人によくあるような、白っぽい金髪を長く伸ばしていて、目は青のような緑のような色だった。「あなたはどこの星の人なの?」と聞いたら、「アシュター」とその人は答えた。それで私は、そういう名前の星があるのかと思ったのだ。

どこにそんな星があるのかと思って、ネット検索してみて、私はびっくりした。それは星ではなくて、宇宙人の名前だと書いてあって、私が意識のイメージの中で見たのとそっくりの絵が出ていたのだ。まったく同じイメージだった。アシュター。これがウィーンのクロップサークル研究者がオーラの中に入れていた「星の情報」だったのだ。

アシュタル・シェラン。正確には、「アシュタルル・シエィライ」という感じの発音になるらしい。最後のルがアメリカ英語風に舌を巻いたRをイタリア語風に舌を跳ねさせているみたいな感じの音に聞こえる。正確な発音なのかどうかわからないけれど、とにかくそのつもりで名前を呼ぶと、アクセスできる。アクセスするときの作法は、人によって違うのかもしれないけれど、私の場合は、「アシュタルル・シエィライ」とそれらしく呼ぶと、繋がるようになっている。

アシュタルは司令官だという風に、ネットの記事には書いてあったけれど、彼は司令を出したりするような組織の構造を持っているわけではないらしい。司令官がいれば、それに従う人たちがいるはずだけれど、そういう主従関係は、地球の三次元的な概念の中にしかない。アシュタルの意識は、それよりもずっと多次元的な意識、銀河意識と言える意識で、地球の言葉で「司令官」と言っているようなものとはまったく違うもののようだった。

「司令なんか出してない。僕は望むだけなんだ」とアシュタルは笑っていた。司令という概念が彼にはおかしくてたまらないようだった。彼が望みを発信して、それに共振する魂が引き寄せられて集まってくるだけなのだそうだ。地球の概念で「アシュタル・コマンド」とか「アシュタルの母船」と言っているのは、つまりはそうして集まってきた人々の、テレパシー的なコンタクトの場であるらしい。三次元的な物質としてそういう宇宙船が存在しているわけではないのだ。宇宙のどこにいようが、アシュタルの望みに共振する魂は、そのテレパシー場にアクセスすることができる。それは、その望みを共有して、ともに実現させようとする人たちの、時空を超えたネットワークのようなものらしい。だから、アシュタルが誰かに命令しているのではなくて、アシュタルが望みを発信すると、誰かがそれに共振して、実現することになるというようなことらしかった。

アシュタルとは、地球を救おうとする愛の意識であり、支配と戦いの世界を終わりにしようとする意志なのだ。彼はプレアデスの人だと言われているけれど、本当なのかどうかはわからない。ただ、地球と深い魂の繋がりを持っていることは確かだ。どうしてそんなに地球のことを気にかけるのかと聞いたら、「僕は地球で生まれたんだ」と言っていたことがある。地球に生まれたけれど、地球人というわけではないらしい。もっとも、アシュタルにかぎらず、地球に生まれた地球外の魂はたくさんいるという話もあるから、特別なことではないのかもしれない。

ただ、アシュタルは北欧人よりずっと大きくて、3メートルくらいはあるように思える。それで思い出すのは、ケルトの伝説に出てくる神々は、昔は巨人の大きさだったという話だ。時代とともに、神々は小さくなっていってしまって、しまいには小人の大きさになってしまったというのだけれど、それは、人間の意識のあり方によって、見え方が違ってくるからなのかもしれない。かつては大きな存在、偉大な存在と思われていたものが、しまいには小人の大きさになってしまう。自然の力だとか、神々の力、目に見えないものの力の大きさを知って、それに従って生きていた人々にとっては、神々は巨大な存在だった。だけど、三次元的に存在するもの以外は存在しないと思って生きている現代の私たちにとって、そうした力は、小人ほどの大きさしかなくなってしまった。しかし、神々が巨大な存在だと思って生きていた頃の人たちは、まるで巨人のような力を使うことができたのだ。それに対して、小人ほどの大きさにしか思っていない私たちは、古代の人たちが使えていた力のほとんどを失ってしまっている。

意識の領域でのコンタクトでは、人の姿も意識のありようによってさまざまに変わるのだ。だから、アシュタルも3メートルくらいの大きさに見えることもあれば、地球人と同じくらいの大きさに見えることもある。多次元的なコンタクトでは、三次元的な身体の姿かたちは、どのみちあまり重要ではない。

あるいは、アシュタルとは、アトランティスが沈んだあとに、こんなことはもう繰り返さないと固く誓った人たちのあの意識なのかもしれない。私たちの意識が現実を作っているのだから、集合意識の中に深く入り込んでいる意識は、たとえはるか昔の意識であっても、今も世界を創造し続けているのかもしれない。とにかく、アシュタル・シェランの意識に共振して、コンタクトしている人たちは、地球上にたくさんいて、その人たちは、それぞれに何らかの形で、アトランティスのようなことを地球人が繰り返さないように、動いているらしい。そしてそれは、地球の概念での「司令」のようなものよりも、ある意味はるかに効率のよいものなのだと思う。


ツアーで行ったクロップサークルの一つ。2013年7月15日にウィルトシャー州ハックペンヒルで発見されたもの。

https://www.youtube.com/watch?v=x6yUum5MvcI

同じクロップ・サークルを中に入って撮影した動画。麦が倒れてできた空間がどうなっているのかがわかる。

ドローンで撮影したクロップ・サークル。すぐ近くに、同じような形の森があるのがわかる。






2023年5月18日



【クロップ・サークルのメッセージ】



クロップ・サークルの真ん中で、宇宙人に会えると思って、イギリスのクロップ・サークルを巡るツアーに参加したのだけれど、クロップ・サークルの真ん中に宇宙人はいなかった。クロップ・サークルは、彼らの贈り物であり、置き手紙のようなものだなと、初めてサークルの中に入ってみて、私は思った。

クロップ・サークルの中は、ちょっと普通にはないくらいのパワフルな波動がある。ある程度の高波動のフィールドは、神聖幾何学などでも作れるけれど、しかしクロップ・サークルの波動の高さは、それだけとも思えない。やはりこの模様ができるときに加えられた波動の力が、深く入り込んでいるのだと思う。実際、一度クロップ・サークルができたところには、来年また植物が生えてきたときに、うっすらと痕跡が見えたりするのだそうだ。

遠隔ヒーリングなどをやったことがある人は、意識がどれだけの力を持つのかをよく知っていると思う。それは物理的な刺激ではないけれど、ある意味、物理的に触れるよりも深く入っていって、癒やしていくような力がある。私たちの身体も物質も、物理的な構造よりも何よりも、実は意識の波動のようなものでできているのだ。そうした部分は、人類がこの200年くらい意図的に見ないようにしてきた部分だ。だけど、この200年ほど、物理的な論理だけでものの現象を説明しようとしてきて、ことごとく破綻していったのを、私たちは見てきている。この破綻は、とりわけ医療や農業など、生命が関わるものに大きく出ている。生命とは、物理的な現象である以上に、意識の波動のようなものでできているものなのだ。そこでは、物理的に効果があるとされるどんなものよりも、愛の意識みたいなものが大きな効果を持っていることが知られている。

クロップ・サークルが伝えているものは、何よりもとてつもなく大きな愛だった。少なくとも、地球人の常識からすると、一体どうしてこんなに大きな愛が持てるのか、とうてい理解できないくらいに大きな愛だ。小さな子どもとか猫とかは、こういう大きな愛を持っていたりする。大きいというか、無条件なのだ。傷つきやすさを恐れることもなく、まったくの無防備で自分をさらしているかのようだ。だから、一体どうしてこんなことができるのかと、私たち地球人はびっくりする。とてもあり得ないようなことが起きているように思える。それは、私たち地球人が、傷つけ合うことにあまりにも慣れていて、人に対して反射的に心を閉じるようになってしまっているからなのだと思う。

クロップ・サークルの中では、まずその大きな愛の波動を何よりも感じる。しかしそれは、愛とも感じないような、何かとてもパワフルな波動だ。多くの人は、ただ何かしら特別な雰囲気がある場所だという風にしか感じないかもしれない。意識が飛んで、異次元世界に入り込んだような感覚を持つかもしれない。波動を感じ取ることに慣れている人は、イメージとか声とかメッセージみたいなものとして受け取ったりするかもしれない。

クロップ・サークルのフィールドから、光の柱のようなものが立っているのを感じる人もいる。イギリスは、ケルト起源のロッドを使うダウジングが盛んで、クロップ・サークルの波動をダウジングで計測している人も多い。ダウジングで測ってみると、確かにクロップ・サークルのフィールドが、非常にパワフルな波動を発していて、それがずっと上まで続いていることがわかる。ドキュメンタリー映画「スライヴ!」で、クロップ・サークルのところにトーラス状の波動の流れができているのをCGで見せている場面があるけれど、実際、ああいう感じで波動の流れができているのだと思う。生命体には、必ずそういうトーラス状の波動のフィールドが、身体の大きさよりもずっと大きいくらいにできているのだそうだけれど、そういう感じで、クロップ・サークルもトーラス状の波動の流れができるのだ。というより、クロップ・サークルの模様は、そのトーラス状の波動の流れが通るので、それによって自然にできているのかもしれない。

クロップ・サークルはとても大きいので、地面の高さからは、どういう模様なのかはわからない。ただ、麦畑の中にラビリンスのような空間ができていて、そこを歩き回ることができる。それは、まるで子供になったような、無邪気な喜びに満ちた体験だ。そして、クロップ・サークルが伝えているメッセージは、まさにそのように、子供になったように、地上で純粋に遊べというようなことなのだと思う。実際、この大地が、一体どれだけのものを私たちすべての生物に与えてくれているのかということを考えたら、私たち人類は、本来この地球上で子供のように遊ぶために生まれてきているはずなのだ。それを私たちは、お金がないと生きていけないように思い込み、あれこれのものを持っていないといけないと思い込み、その結果、シンプルに与えられたもので遊ぶ代わりに、お金を稼ぐために環境を壊すようなことをしているわけだ。クロップ・サークルの中を歩き回る体験は、そうした思い込みから一度自分を解放して、子供のように遊ぶ機会を与えてくれる。

クロップ・サークルの全体の模様を高いところから見ると、その全体の図形を見て取ることができる。その図形からさまざまなメッセージを読み取ることもできる。π(パイ)とか黄金比率みたいな数学的な内容が含み込まれている図形もあるし、ケルト文字や占星術の内容が読み取れることもある。あるいは、まるで会話しているみたいに、人の意識に応えていることもある。イギリスのクロップ・サークル研究者たちは、そういうことをよく経験している。クロップ・サークル研究の長老とみなされていた建築家のマイケル・グリックマンは、ケルト十字の話をしていた翌朝に、目の前の麦畑にケルト十字を表したクロップ・サークルができたことがあったという話を本に書いていた。こうしたことは、これだけではなかったらしく、彼は宇宙人たちが彼の意識を読んで答えてきていることを確信していた。

私が参加したツアーには、チャネラーさんがついてきていて、クロップ・サークルで宇宙人のメッセージを伝えてくれていた。それは、私にとっては実に奇妙な感覚だった。私は私で、クロップ・サークルのエネルギーを読み取っているのだけれど、彼女が伝えているメッセージとまるで違うのだ。いや、言っていることは確かに同じなのだけれど、言い方がまったく違う。彼女も私も同じ波動を受け取っていて、同じメッセージを聞き取ってはいるのだろうけれど、受け取る人の意識のあり方によって、まるで違うものとして受け取れてしまうということなのだと思う。

私にとっては、それは何よりも、子供のように心を開き切った意識であり、それが必死に訴えているような声で聞こえてきていた。それは、言葉にするならば、こんな風になる。「僕たちがどんなに君たちを愛しているのかを、知って欲しいんだ。君たちがどんなに孤独かが、僕たちにはわかるから、だから伝えないではいられない。君たちは、地球にしか人がいないと思っているけれど、本当は宇宙全体が君たちを見ているんだ。僕たちは君たちの友達なんだよ。君たちが孤独のあまり、地球を壊してしまいそうになっているのがわかるから、助けないではいられない。どうか分かって欲しい。僕たちの愛を受け取って欲しい」

ところが、チャネラーさんが伝えるメッセージは、かなり調子の違うものだった。「私たちはシリウスBからやってきた使者だ。お前たち、時は来た。目覚めなさい。宇宙は、地球のお前たちのことを見ている。地球が宇宙の仲間に入れるように、愛を学びなさい」と、そういう調子で続いていくのだ。確かに、内容は同じではあるのだけれど、そんな風に上からものを言ってくるようには、私は受け取らなかったし、どうも何かが根本的に違うと思えてしかたがなかった。

彼女は、半トランス状態になって話すタイプのチャネラーで、自分が言ったことをすべて覚えているわけではない。そういうタイプのチャネリングは、いかにも本物らしく思えるのだけれど、やはりけっこう当人の世界観を投影していることが多い。彼女には、そのメッセージは上からの命令とか教えのように受け取れたのだ。それは、彼女がまだ上下関係のある次元の意識で生きていることを示している。宇宙人とのコンタクトは、銀河意識の次元で起こっているので、地球的な上下関係はもはや存在していない。それを彼女は一方で感じ取りつつも、そのような対等な関係を受け入れることが心理的にできなかったのだと思う。それで、上からの命令のように聞き取ってしまったのだと思う。

クロップ・サークルの中では、私はチャネラーさんのメッセージに違和感を感じていて、クロップ・サークルのエネルギーに意識を集中することができなかった。そのことに私はひどくがっかりしていた。私はクロップ・サークルの真ん中で、宇宙人とハグするつもりで来ていたのに、こんなメッセージを聞かされて、イライラしていた。しかし、クロップ・サークルの中で、私はそのすべてのメッセージをちゃんと意識の中に受け取っていたのだ。

クロップ・サークルを訪ねたあと、私たちは近くのパブに行ってランチをしていたのだけれど、そのときに、クロップ・サークルで受け取ったメッセージが、一気に意識に降りてくる瞬間があった。とつぜん、とてつもなく大きな愛のエネルギーを受け取ったのだ。私は号泣しないではいられなかった。それで、一人で店を出て、外に行った。そこは田舎の一軒家のパブで、近くには小さな運河が流れているだけだった。これだけのものを受け取って、あのチャネラーさんは、よく冷静にあんなことを話していられたものだと思った。

私はクロップ・サークルの真ん中で宇宙人とハグするつもりで来ていたのに、宇宙人はいなかった。そこにあったのは、彼らの置き手紙のようなものだった。だけど、そのメッセージこそは、この上もない熱いハグだったとも言える。何らかの形で宇宙人の存在を感じた人たち、ロズウェルで宇宙船の破片らしい物質を子供のときに見たという人や、空軍のパイロットでUFOを見たという人たちが、インタビューに応えて、「私たち(地球人)は孤独ではないんです」と夢見るような目つきで言っていた。まさにその目つき、その感覚なのだ。私たちは孤独ではないのだということ、宇宙に友達がたくさんいるのだということ。ロズウェルの宇宙船の破片にしろ、戦闘機の前に現れるUFOにしろ、それは宇宙存在たちが私たち地球人に示す友愛のメッセージなのだ。

私たち地球人がたがいに戦うのは、心を閉ざして、たがいに警戒し合っているからだ。支配は、まさにその状態を作り出す。人々を分断し、たがいに争い合い、傷つけ合うようにだ。そして今、私たち地球人は、相手を出し抜こうとするあまりに、世界を滅ぼしてしまいそうになっている。だから宇宙の存在たちは、私たち地球人が恐れを乗り越えて、心を開き、愛を受け取れるようにと、地球のあらゆるところで、メッセージを送っているのだと思う。

あのクロップ・サークルの旅で、私は宇宙人の存在を確信し、彼らが無条件の愛でしかないことを確かめたのだと思う。その旅の前に、私は地球が嫌になって、高次元領域に逃げていき、宇宙の真ん中で恐ろしい孤独を感じたのだけれど、それ以来、私は9次元まで上がっていくのが恐くなっていた。だけど、あの旅のあとで、今なら大丈夫かもしれないと思って、また9次元まで上がってみた。

前には、宇宙には何もなく、誰もいなくて、私はまったくの孤独だと思った。だけどそのときは、9次元まで行ったときに、目の前に銀河が広がっているのが見えたのだ。そして、その星の光の一つ一つが、クロップ・サークルの中で受け取ったのと同じ、無限の愛に瞬いていた。銀河感覚とはこういうものなのだと、そのとき私は理解した。

銀河には、上も下もない。皆、対等に並んでいて、この美しい銀河の全体を形作っているのだ。すべての星の人たちと対等であり、友愛で結ばれている。銀河世界とは、まさしく多極的な愛のネットワークの世界なのだ。その愛を受け取ることができなかったから、9次元まで行って、壮絶な孤独のあまり死にそうになったのだということが、それでわかった。


2013年8月イギリスのウィルトシャーでできたクロップ・サークル。ツアーの最後に訪ねた。これは、農家の許可が得られなかったので、中には入れなかったけれど、高いところから見た。この円のところに、光の柱が上がっているのがわかった。

映画「スライヴ!」でクロップ・サークルについて語っている部分。トーラス状のエネルギーの流れを、CGで見せている。


2023年5月19日


【孤独は三次元にしか存在しない】



地球にいるのが嫌になって、9次元まで逃げていこうとして、宇宙の真ん中で宇宙船に救い上げられてから、私は宇宙船で会ったシルバー・グレーの肌の宇宙人と、よくテレパシックにコンタクトしていた。よくあちこちで目撃されている、子供くらいの大きさの、頭が大きい宇宙人だ。意識のイメージで見る姿だから、現実にそういう姿をしているのかどうかはわからない。しかし、どういう姿をしているのかは、あまり重要なことではないのかもしれない。

名前を聞いたら、ハルーという風に聞こえたので、そのように呼んでいたけれど、実際には「ハァルルゥゥゥ」という感じの発音で、あとのゥゥゥというところには、私には聞き取れない音がいくつか入っているようなのだけれど、何度聞いても聞き取れないので、単に「ハルー」と言っている。あるいは、地球の言語にはない音なのかもしれない。

意識のコンタクトの世界を知ってしまうと、とつぜんまわりの人たちが、違う世界の人のように思えてくる。話してわかりあえる人がいなくなってしまう。自分が変な人になってしまったのか、あるいは何か特別な人間になったのか、それがわからなくて、その間をどっちつかずにさまよう。それで、ひどい孤独感に苦しむ人は多い。意識の世界では、無条件の愛そのものに浴びるように浸っていても、現実世界ではまったく孤独だ。そのギャップの大きさは、ときに頭がどうにかなってしまいそうなものがある。

「君は、君を理解しない人のことばかり考えているから、孤独に感じるんだ。だけど宇宙には、君のような人がたくさんいるんだよ」と、そんな風にハルーは言う。実際、私たちは、意識をどこに向けるかによって、自分自身の経験を作り出している。そして、それが現実だと思い込んでいるのだ。本当は、世界にはずっと多くの可能性があって、まったく別な経験を作り出すことも可能なのだ。だけど、私たちは多くの場合、これが現実だと自分が思い込んでいるようなものに合った現実ばかりに意識を向けようとする。

そのときの私は、どこかにわかり合える友達がたくさんいるなどとはとても思えなかった。それで、「でも、私は孤独に感じる」と言おうとしたのだけれど、そのとき急に、「孤独」という言葉の意味がわからなくなってしまった。孤独という概念が、とつぜん私の意識から消えてしまったのだ。孤独って、いったい何のことだったのだろう? 私はいったい何を言おうとしていたのだろう? そんなものが本当に存在しているのかどうかさえも、わからなくなっていた。

「孤独っていうのは、物理的なレベルでしか存在しないんだよ」と、ハルーは言った。私は、孤独を感じると言おうとして、自分が宇宙的な繋がりに満たされているのを感じた。大きな無条件の愛の海に浸っていた。そこでは、孤独などということは、存在しようがなかった。
「ハルー、だけど私は、今ここにたった一人だし、誰にも会っていないんだよ。それで孤独を感じてないってどういうこと? 私は妄想にとりつかれているんじゃないの?」
「わかる。だから、孤独というのは、物質的なレベルだけのことなんだよ」とハルーは言った。

ハルーと話していると、聞こえてくる言葉だけではなくて、感情や概念のすべてが一緒にやってくる。交わしている言葉自体は、とても少ないのだけれど、一言一言に膨大な量の情報が入っているのだ。いや、言葉に情報が入っているのではなくて、ある概念が丸ごと意識の中に入ってくる。それが言葉としては「孤独とは、物理的なレベルでしか存在しない」というような、謎めいた言葉にしかならないということなのだ。だから、ハルーと話していると、普通ならば長々と説明しなければならないような概念が、一瞬で意識の中に入ってくるような、実に不思議な会話になる。だから、ごくわずかな言葉しか使っていないのに、ものすごいスピードで会話が進んでいく。

私たちは、自分が孤独なのかそうでないのか、幸せなのか不幸せなのか、豊かなのか貧しいのか、ということを、すべて三次元的な現実で測ろうとする。現実にものわかりのいいパートナーがいるとか、理解してくれる友達がいるとか、一緒に遊びに行ける仲間がいるかとかで、自分が孤独かそうでないかを決めようとする。社会的に自分が必要とされているような職業があるとか、それでお金が稼げているとか、人に尊敬されるような社会的な地位があるとか、そういうことで、自分が幸せなのかそうでないのかを測ろうとする。

だけど、自分が孤独なのか、幸せなのか、豊かなのかということは、本当はそういうこととは関係がない。すべてを持っているはずなのに貧しい人もいるし、たくさんの人に囲まれているのに孤独な人もいる。逆に、何も持っていないのに豊かで幸せな人もいる。そして、それはつまるところ、どこに意識を向けて生きているかによる。

ところで、三次元を超えた次元の意識では、物質的に今存在しているかどうかは、あまり重要ではなくなってくる。チャネリングやリーディング、テレパシックなコンタクトをやってみた人はわかると思うけれど、意識の領域では、時空はまったく関係がないのだ。空間的にどれだけ離れていようと関係がないし、過去でも未来でもまったく関係なく、どこへでも繋がることができる。その領域では、孤独ということはそもそもあり得ない。たとえ今現在、たった一人でいたとしても、過去や未来に繋がりがあるはずだし、世界中でも宇宙全体とでもいつでも繋がることができる。自分が生まれる前の人々とも繋がることができる。その領域では、世界は無条件の愛に満たされていて、誰もがそれに浸るようにして生きている。

ハルーとコンタクトしながら、私はそうしたことを少しずつ学んでいったのだ。それは、三次元のレベルで考える習慣から、少しずつ出ていくようなプロセスだった。

この200年ほど、私たちは意識の領域から少しずつ切り離されていって、物質的なものだけを追い求めるようにされていった。それはまさに、国際金融資本家たちが世界を支配するようになったからだった。彼らは人々がすべてをお金に換算して、お金によってすべてが得られるかのような幻想を持つように仕向けたのだ。それで私たちは、まずはお金で買えるようなものを手に入れようとするようになった。だけど、そうしたものは結局のところ、愛でもなければ幸せでもない。ただ、愛や幸せが得られるはずだという幻想にすぎないのだ。そうしたものは、実のところ、手に入れれば入れるほど、欠如感が増していく。それでますますお金を追いかけるはめになる。その悪循環で、多くの人々は、孤独のあまり死にそうになっている。その次元から出ていかなければ、私たちは地球を破滅させてしまうだろう。

しかし、私はあの頃まだ、三次元的な関係にこだわっていた。それで、何とかしてハルーとリアルに会おうとしていた。ハルーは、そんなことにはあまり関心がないようだった。三次元的に会ったら、外見が違うことに意識が向いてしまって、嫌悪感が湧くだろと言っていた。私はそんなことはないと言ったのだけれど、ハルーは言った。「でも、地球人は同じ地球人だって、姿が違うと恐がったり軽蔑したりするんだろ?」

確かにハルーの言う通りだと思った。地球の中だけでも、いろんな姿かっこうの人たちがいるけれど、私たち地球人は、まずその姿かたちで相手を判断しようとする。自分と違う肌の色、顔つきをしていると、違う人間なのだと思って警戒する。それで、ある種の人々は劣っているのだと思ったり、同じ人間ではないみたいに思ったりする。だけど、他の星の人たちは、それよりももっと違う姿かたちをしているのだ。哺乳類でさえないこともある。それを考えたら、私たちは地球人は、どんなに姿かたちが違っていても、やはり似ている仲間なのだ。

同じようなことは、外国に行ったときにも起こる。日本の中にだけいたら、日本人同士でも、出身が違うとか育ちが違うとかで、自分とは違う人間みたいに思っているけれど、外国で暮らしてみたら、どんなに違っていても、やっぱり異国人に比べたら、みんな同じ仲間だというのがわかる。もちろん、同じ日本人だからといって、異国人よりも気が合うかといったらそんなことはないけれど、誰と気が合うとか話が合うとかは、実のところどこの国の人間かは関係がない。それとまったく同様に、本当に誰と理解し合えるかということは、相手がどこの星の人間だろうと関係がないのだ。

こういう風に、相手がどこの国の人間かは関係がない、という意識になれたとき、国際感覚ができたということになるわけなのだけれど、これが宇宙人コンタクトとなると、星際感覚ということになるのだろう。国際がinternational だから、星際はinterplanetaryだ。地球上に生きているさまざまな人たちと自分が同じ地球人であるという意識、そして、どこの星の人間であろうと、気が合うか話が合うかは関係がないという意識だ。そして、こうした意識を持てたとき、私たちは初めて、地球人意識を持つことができる。自分が地球人であるということに、誇りと愛の感覚を持つことができる。その意識に至ったときに、私たちは地球上での争いをやめて、宇宙に開かれることになるのだろう。

ハルーたち異星人は、私たち地球人にその感覚を伝えるために、コンタクトしてきてくれるのだ。


2008年7月にイギリスのウィルトシャーにできたクロップ・サークル。

2023年5月21日

【現在とは、過去と未来の狭間ではない】



アシュタル・シェランと話すのは、言葉というよりも、まるでマグネシウム光の炸裂のようだ。閃光のようにイメージが意識の中に入ってきて、「あっそういうことか!」と一瞬で何かを悟ったような感覚があるのだけれど、何がどうわかったのかを説明することはできない。それは、地球の言語では説明できないような概念なのだ。ピカッと光る光のように意識の中に入ってきて、その概念をいっぺんに受け取ってはいるのだけれど、理解するのにはもっとずっと多くの時間がかかるし、何よりもその概念に慣れるのに何週間もかかったりする。それは、私たちがこれまでずっと三次元的な概念だけで考えてきたので、それより上の次元の概念は、存在しないもの、あるいは現実的ではないものとみなすように条件づけられているからなのだと思う。

だから、アシュタルと会話していると、そうした高次元の概念を閃光のように受け取ったあとで、アシュタルのエネルギーに抱えられて、宇宙を漂ってでもいるような感覚の時間をすごすことになる。言葉を交わすというよりも、そうやって漂っている。それは、三次元的な概念で固まっている私の意識を、ゆっくりとほぐしていっているような、不思議なプロセスだ。

たとえば、アシュタルはこんな風に言う。「君は、この先がどうなるんだろう、と未来のことばかり気にしているね。君はいつも過去のことは終わったこと、未来のことはまだ来ないことと思っている。それなら、現在は空っぽだ。君は空っぽの中にすわっている。そして、いつも未来を待っている」その言葉とともに、過去と未来の間の狭いところに、私が窮屈そうに座っているイメージが、閃光のように意識の中に入ってくるのだ。それと同時に、私はそのバカバカしさに大笑いしたくなる。私はこんなことにこだわっていたのかと、爆笑してしまう。その笑いとともに、これまではそれ以外にないかのように信じていた概念が、ワラワラと崩れていくかのようだ。

アシュタルと話すのは、9次元の意識とコンタクトするようなものだ。それは、三次元の意識からすると、まるで閃光の炸裂の連続だ。光が炸裂するごとに、これまで思い込んできた概念が一つずつ破裂していく。そのたびに、あっそういうことか!と思うのだけれど、すべてを理解することはできないし、何を受け取ったのかさえわからないことも多い。ただ、何年も経ってから、あのときアシュタルから教わっていたなと思うことが、意識に昇ってくることがある。だから、ともかくもすべて受け取ってはいたのだと思う。9次元の意識から情報を受け取るとは、時に何年も何十年もかかって形にしていくようなことなのだ。それはたとえば、ある特殊な機械の設計図のようなものを受け取ったとしても、それを実際に作るのは、一生かかる仕事だったりするのとも似ている。三次元の領域に形にするのは、それなりの技術や感性や理解力や経験やいろいろなものが要る。そして、そうしたものを駆使して、形にしていくことこそが、地球での創造というものであり、私たち地球人は、まさにそうした経験をするために、地球に生まれてきているのだと思う。

「この次元では、今しかないんだよ。そして、今の中に過去も未来もすべて存在している」そう、アシュタルは言う。私たちは、時間を過去と現在と未来とに分けて、まるで現在しか存在していないかのように生きている。過去はもう過ぎ去ってしまったものだから、それはもう存在していない。そして未来は、未だ来ていないものだから、やはり存在していない。だから、私たちが生きる時間は、今しかないと思っている。しかし、過去も未来も存在していなくて、今しかないのなら、私たちは過去と未来の間にあるごくわずかな空間にだけ生きているようなものなのだ。過去はもう変えることができないし、未来はどうなるのかわからない。まったく無力なまま、過去と未来の狭間にすわって、過去のことを悔やんだり恨んだり、未来のことを心配したり期待したりして、今をすごしているわけなのだ。今、一生懸命やっていれば、未来にはよくなるだろうと思って、いつも未来のために生きている。アシュタルは、それを「空っぽの中にすわっている」と言うのだ。

私たちは、いつも未来のためにと今を生きるように仕向けられてきた。将来のために勉強しなくてはいけないとか、将来に備えて貯金をしなくてはいけないとか言われて、やりたくないことをやってきた。そういう時間の使い方をするのが、賢いことなのだと言われてきた。その挙句、私たちは、自分がうまくやったのかどうかと、いつもまるで裁定を待つように、未来を待って生きている。

ミヒャエル・エンデの「モモ」で、「時間泥棒に生きた時間を盗られた」と言っているのは、まさにこうしたことなのだ。将来のために時間を有効に使うべきだと言われて、やりたくないことをやり、やりたいことをやるのを断念するようになった。そうでないと生きていけなくなるとか、成功した人生を送れないとか、豊かになれないとか、そう信じ込まされて、自分がやりたいことじゃなくて、将来のために意味があると言われていることをやって生きることになったのだ。その結果、私たちはいつも、いつまでにこれをやり終えなければと、時間に追いかけられて生きることになった。それはまるで、いつも一本橋を渡っているみたいに、限られた道を踏み外さないようにと緊張して生きているようなものだ。

それが当たり前で、それ以外のものなどないかのように、私たちは思い込まされてきたのだ。しかし、それも200年ほど前から、産業資本主義経済に時代が移行していって、人々が金融資本家たちの思うように働くべく、仕向けられていったからにすぎなかった。学校制度とは、まさに子供たちをそうした人間にするために作られたのだ。子供の頃から、将来立派な人になるようにと、何でも言うなりにやるように習慣づけられていった。その結果、私たちはいつも、自分がうまくやっているのかどうかと、評価を待つように生きていて、自分がいったい何をしたいのか、何のために生きているのかも、わからなくなってしまっている。それは、確かにアシュタルの言うように、「空っぽの中にすわっている」ようなものだ。

幸せな人間関係が壊れてしまったり、失われてしまったときに、幸福だった時間はもう戻らないのだと、私たちは悔やんだり悲しんだりして生きている。そして、その過去はもう忘れるべきだとか、思い出すべきではないのだとか思っている。だけど、過去は過ぎ去ったものではなく、今の中にすべての時間があるのだと、アシュタルは言うのだ。過去も未来もすべてが今の中に存在しているのだと。

地球のすべての哀しみは、実はそこから来ているとも言える。過去が過ぎ去ってしまって、もう存在していないと考えることからだ。そのために、私たちは自分がしたことを後悔したり、自分を責めたり、罪の意識を持ったり、あるいは誰かのせいでこうなったのだと思って、怒ったり恨んだりしている。でも、過去は変えることができないと思っているので、いくら誰を責めても、どうにもならないということにしかならない。

その哀しみを終わらせるために、過去も未来もすべての時間が今の中にあるのだということを、知るべきだとアシュタルは言う。過去の幸せだった時間は、消えてしまったわけではない。私たちはいつでも意識上で過去に戻っていって、その幸福を感じることができる。過ぎ去ってしまったということに意識を向けるのをやめれば、その時間は少しも失われずにそこにあるのがわかる。5次元とは、実のところ、この時間感覚のことを言っている。

次元は、よく高いとか低いとか言われるので、下から上へと垂直軸に並んでいるように思われていることが多いのだけれど、そうしたものではなく、むしろ視野の幅のようなものだ。次元とは、現実を測るものさしの数なのだ。一次元なら、ものさしが一本しかないから、いいか悪いかとか、右か左かということでしか現実を測れない。それが2本になると、幅があるのがわかるようになり、3本になると高さがあるのがわかる。4本になると、時間という概念が入ってくる。ここまでが、私たちがこれまで生きてきた意識のあり方だ。

これにもう一本ものさしが加わると、時間というものが一直線に流れていくものではなく、幅があるのがわかるようになる。私たちは、「過去はこうだった」という風に固定したものと思っているのだけれど、実は過去にはいろんなヴァリエーションがあることがわかる。そして、過去を幅があるものとして見た場合、過去に戻っていって変えてくるということが可能になるのだ。だから、過去も未来もすべての時間は今に存在しているし、時間は今にしかないとも言える。過去、未来、現在という風に時間が分断しているように見えているのは、4次元までのことなのだ。地球のすべての哀しみは、その分断から生まれている。

「一鼓動ごとに何千という現実が生まれているんだ。一鼓動ごとに何千という過去、何千という現在、何千という未来 が生まれているんだ。もし君がそれを知ってくれたら……」と、アシュタルは言う。言うというよりも、私はそのメッセージを鮮烈なイメージとして受け取っている。アシュタルの心臓が輝き始め、その筋肉の細胞の一つ一つが小さな光を放つホログラムのようになって、小さな光の像を映し出している。その一つ一つが、それぞれ異なる過去であり、現在であり、未来だというのだ。それが、心臓が鼓動するたびに、新たに産み出されていく。

そこに三枚の金網のようなイメージが現れ、それぞれが過去、現在、未来を表している。金網の目の一つ一つが、光を放つホログラムで、それぞれが異なる過去、異なる現在、異なる未来なのだ。そこに、白い光の紐が通されていく。これが、私たちが思っている時間の流れを表している。紐は、直線的に過去、現在、未来と繋がっているのではなく、あっちへこっちへとクネクネ曲がりながら、三枚の層を繋いでいる。過去が左の方の端の網目を通ったら、別な端の方へ行って現在を通り、また別な方へ行って未来を通っていく。

「これが因果関係だよ。君たちが因果関係と呼んでいるものは、 こんな風なものなんだよ」そうアシュタルが言うのが聞こえる。その瞬間に、私はもう笑い出している。笑いながら泣いている。私たちが因果関係と言っているものは、こんなものだったのだ。たがいに何の関連もないようなものを、無理矢理に繋いだようなものにすぎなかった。こんなものを、私たちは真実だと思って、大事にしていたのだ。それで、ある事態が起こったのを、自分のせいにしたり、誰かのせいにしたり、だから未来はこうしなければならないとか、こうなるのだとか思ったりしていたのだ。私は泣いていた。泣きながら、爆笑していた。

「『今、ここ』をすべての時間で満たすんだ」そうアシュタルは言う。今ここの中に、ありとある過去があり、ありとある未来がある。それが銀河の星のように無数にきらめいている。これが9次元の世界であり、9次元の時間感覚だ。時間とは、直線上を動いていくものではなく、毎秒ごとに無数にきらめく輝きなのだ。

アシュタルの生きる次元では、まるですべてがマグネシウムの閃光のようで、絶えず笑いが炸裂しているかのようだ。これが9次元の世界なのだ。だから9次元には、笑いのように炸裂する喜びと愛の感覚しかないのだということを、私は理解する。私たちが生きている三次元では、つねに分断があり、孤独があり、哀しみがある。しかし、9次元には、分断というものがないのだ。それは、三次元の意識が作り出している幻想にすぎない。三枚の金網を通るクネクネした白い紐だけを、現実だと信じているようなものだった。本当は、世界は絶えず瞬いて、無数の可能性を新たに産み出し続けている、美しい銀河のようなものだったのに。


2001年8月に、イギリスのウィルトシャーにできたクロップ・サークル。

2023年5月23日


【自分というものの概念が変わる】



アシュタル・シェランとコンタクトするのは、ときに何かとても繊細なものに触れられるような不思議な感覚だ。触れると言ったら、三次元では表皮に触れることをいうけれど、アシュタルとコンタクトしているときには、表皮というものはなくなっているかのようだ。まるで銀河のような無数の小さな星の光が、身体の中をスゥッと通っていくかのようなのだけれど、それはあり得ないくらいに柔らかくて繊細な感触で、身体の中の細胞がすべて溶けてしまうかのようだ。

「自分というものが変わるんだよ。もう人に頼ることもない。自分に似ている人を探し求めることもない。似ているからっておぼれることもない。ちがうからって嫌うこともない。それは、自分の中の深い大きな海の中に生きるようなものなんだ」そうアシュタルは言う。

私たちは、自分はこういう人間であって、ああいう人間ではないとか、何ができて何が欠けているのかとか、そういうことにきっちりと境があるみたいに思っている。自分と自分以外のものの境が、表皮でくっきりと分かれていて、その境の外側にあるものは、自分とは違うもの、自分にはないものだと思っている。つまるところ、そのために、私たちはいつもまわりの人々を見て、自分が劣っているのか優っているのかと気にしたり、優越感を感じたり、欠如意識を持ったり、自分が認められているのかどうなのかと悩んだりするわけなのだ。まさにそれこそは、私たち地球人がたがいに傷つけ合い、苦しむ原因のほとんどだと言ってもいい。

アシュタルは私に触れる。触れるというより、その手が私の身体の中をスゥッと通っていく。三次元の世界では、触れるといったら、表皮と表皮がぶつかることだ。ぶつかって、自分と相手の境を知ることだ。自分と相手が違うものであることを意識すること。だけど、アシュタルが触れるとき、その手がスッと私の身体の中に入ってしまい、身体の細胞の一つ一つが、アシュタルを感じるかのようだ。

チャネリングやリーディングをやってみたことがある人は、私たちの意識も過去の体験も身体の状態も、実はすべて筒抜けに見えてしまうというのを知っていると思う。意識の領域では、私たちは嘘をつくことは不可能だし、何かを隠すこともできない。だから、人と人との境というものも、あってないようなものなのだ。だけど私たちは、自分を隠そうとするようになり、自分を自分でないものに見せかけようとするようになった。私たちは、互いに警戒して、表皮を硬くして、境をはっきりとつけるようになった。まるで、鎧を着たり、国境に高い壁を作ったりするようにだ。

アシュタルの手が私の身体の中を通っていくとき、硬くなっていた表皮が柔らかくなって、溶けていくかのようだ。本当は、こんな境は存在していなかった。物理的には存在しているけれど、意識の領域では、こんな境は存在しない。どこでも入っていくことができるし、すべては共有されている。

自己というものが、くっきりとした境を持つものとして考えられるようになったのは、近代に入ってからのことなのだと思う。学校制度ができて、子供は皆学校に行って、同じことを学ばなければならないようになり、それがどれだけできるかによって、優劣をつけられるようになった。一人一人の能力や性質が、すべて客観的に計測できるかのようにだ。それで私たちは、社会が与えるある基準によって、自分が優れているのか劣っているのかをつねに考えるようになった。それによって、自分には何かが欠けていると思ったり、人のことを羨んだりするようになった。それが自分が求めることなのかどうかもわからないのに、優れているとされているものを得ようとして、あらゆる犠牲を払ってでも努力するようになった。

それもつまりは、人々を同じ方向に向かわせるようにするためなのだ。3年前に奇妙なパンデミックが始まってから、外から与えられた方向づけに、どれだけ人々が思考停止状態で従ってしまうのかということがよくわかった。それまで私たちは、多かれ少なかれそれぞれ自分で考えて判断して行動していると思っていた。だけど、「自分で考えている」と思いながら、実は外から与えられた方向づけに自分から従っていたのにすぎなかったのだ。

テレビや新聞を信用している人もしていない人も、ありとある領域で、外から与えられた方向づけに従うというあり方が条件づけられている。与党支持であれ野党支持であれ、自然環境派やスピリチュアル系、陰謀論系でさえも、人を一定の方向へ向かわせる操作が入り込んでいて、本当には望んでいないことを求めるようにされていた。本当は、私たち人間には誰にでも、それぞれ自分にとって正しい方向性を知る力があるのにだ。だけど、その力を使わせないようにするために、人の能力や優劣がはっきりと測定できるようなものであるかのように思い込ませていたのだ。

アシュタルは、そんな自分の境など存在しないのだということを見せてくれていた。言葉ではなく、イメージとして、その概念が私の意識の中に入ってくる。その中で、私は大きな海のようなものになっている。そしてその前に、仮面をつけるように、人形のようなものをつけている。その人形が、私が今まで「自分」だと思っていたものだったのだ。そして、海のような大きさの本当の自分が、人形遊びをするように、その人形を動かしていた。自分で着せ替えて、ある役柄を演じさせたりするようにだ。

私たちは今まで、こんなものを自分だと思い込んできたのだ。それで、私が私がと争ったり、私がやる、と思ったり、私にはできない、と思ったり、自分を得意がったり、恥じたりしていたのだ。自分にできるとかできないとか、自分は偉いとかあの人の方がすごいとか思って、そのたびに一喜一憂してきたのだ。そんな遊びに夢中になって、私たちはいったいどれだけ本当の自分を小さな人形の中に閉じ込めてきたことだろう? 私たちが今まで自分と思っていたものは、巨大な海の前にちょこんとつけられた、ほんの小さな仮面のようなものにすぎなかったのだ。

それを見て、私は大笑いしたくなると同時に、泣きたいような気持ちになった。その瞬間、私の意識の中で、何かが裂けた。私がこれまで持っていた思い込みが破裂するように亀裂ができ、まぶしい光のような真実が視界に入ってくる。

三次元的な自分という幻想が解けて消えていってしまうと、自分というものは、大きな海と一つになってしまうかのようだ。そうなったら一体どうやって人と交流することができるのだろう? それは三次元的な概念からすると、死ぬこと、存在するのをやめることにも似ているように思える。

「表現と共鳴だよ。すべてが一つでも、表現は人それぞれだ。一人が表現すると、他の人がそれに感応する。そして答えがある。別な表現が生まれる。そうやって世界はますます光が増していき、さらにつながりが大きくなっていく。理解じゃないんだ。共鳴。共演する関係だ。そこに、世界が何度となく創造されていく」そうアシュタルは言う。

そのとき、自分が海の中を進んでいく箱のようなものになっているイメージが現れる。その箱には、いくつもの扉がついていて、それが開いたり閉じたりしている。開いたところからは、海水が入ってきて、また出ていく。どこを開けるのも閉じるのも、自在だ。

自分とは、実はこのような流動的なものだったのだ。そんな風にただ扉を開けるように、何でも取り入れることができるし、何でも流してしまうことができる。開いた扉から、海水が大量に入ってきて、別の扉からまた出ていった。自分とは、本当はこんな風に自在で自由なものだったのだ。

あのときは、その概念をアシュタルから受け取って、なるほどそういうことだったのかと思ったのだけれど、それが現実としてどういうことなのかがわかるまでには、何年もの時間が必要だった。しかし、あのときアシュタルから受け取ったものは、たしかに私の意識に風穴を開け、それが時とともに大きくなっていったのだ。

あのあと何年か経ってから、私は「魔法の使い方」を書いたのだけれど、あそこに書いた内容は、今思えば、あの頃アシュタルから受け取っていたものだった。そして、自分でセミナーをやるようになって、意識を変えることで現実を変えるワークを皆でやってみたりするようになって、アシュタルから受け取ったものが、本当にその通りだったということを、リアルな手応えとして、わかるようになった。

自分というものが、海のような大きさだということは、頭で受け取っても、なかなか本当には理解できない。ただ、実践していくうちに、少しずつ意識が切り換わっていくのだ。頭で理解しただけでは、やはり三次元的な概念で考えてしまう。だから、「自分を小さいと思ってはいけない」とか「何かが欠如していると思ってはいけない」みたいなことを自分に押しつけて、ますます窮屈になっていたりする。

しかし、意識の領域で実践してみると、高次元の概念も、何ていうこともなくリアルにわかってしまうのだ。それは、修行したからとかいうようなものではなくて、単に柵の外に出てみたら、外にも世界が広がっていたことがわかる、というようなものだ。たとえば、自分にはできないと思っていることがあるとして、意識上でその能力を誰かからもらってしまうということができる。これは、やってみると本当にできてしまうことがわかる。できなかったはずのことが、実際にすぐできてしまったということもあるし、すぐにはできなかったけれど、数カ月で本当に思った通りにできるようになっていたということもある。それが本当に、単に閉じていた扉を開けるというようなことにすぎないことが、実感としてわかってしまうのだ。

自分というものの境がそんな風にあいまいになってしまったら、自己主張したり、自分の表現をしたりということができなくなってしまうんじゃないかとか、もう人を必要としなくなって、孤立してしまうのではないかとか、やってみるまでは、そういう不安があれこれと湧き起こってくる。それが、まるで死ぬことみたいに思えたりもする。それは、思春期のときに、自分が自分でなくなってしまうような気がして、不安になるのとも似ている。だけど、それまで思っていた自分の概念の外に出てみたら、前よりも自由になって、大きくなっていることに気づくだけなのだ。


1996年7月にイギリスのウィルトシャーにできたクロップ・サークル
クロップ・サークルの内部


2023年5月26日


【女性性と男性性】



男性性と女性性が統合するとは、どういうことなのだろう? それについてのアシュタルの答えは、ある意味、驚くべきものだった。
「僕が君になるのさ。自分にないものを求めて、女が男を、男が女を愛するのではなくてね。今までは君たち、そうやってきたんだろ? 男は女ではなく、女は男ではない、と。そして、男は自分の中の女性性を抑圧して粗暴になり、女は自分の中の男性性を生きないで依存的になった。そうではなくて、女は自分の中に男性性を発見して、それと一つになり、男は自分の中に女性性を発見して、それと一つになるのさ」

心理学者のC・G・ユングは、男にも女にも男性性と女性性の両方があるのだということを言っている。そして、男性の中では、女性性が抑圧されていて、女性の中では、男性性が抑圧されているのだと。私たちは、子供の頃から、女の子は女らしく、男の子は男らしく、としつけられてきた。女の子は冒険ごっこやチャンバラごっこをしてはいけなくて、男の子は人形で遊んだりしてはいけないことになっていた。それでいつも、女は男を、男は女を必要として、依存的な関係を作ることになっていたわけなのだ。それで、たがいに期待に答えてくれない相手を責めたり、傷ついたり、傷つけたりしていた。

だけど、男も女も男性性と女性性の両方を持ったら、どちらも同じようになって、たがいに求め合わなくなるように思える。でも、そういうことではないのだとアシュタルはいう。
「今にわかるよ。いいかい、君は僕、僕は君なんだ。そう思ってごらん」

すると、私の中で不思議な感覚が起こる。私がアシュタルになるというのではなく、アシュタルが私になるのでもなかった。そうではなくて、私の中で、私とアシュタルが交わり合っていた。まるで、背骨のまわりに、二匹の蛇がクルクルと巻きつきあって交わるようにだ。それはまるで、私の中で私の男性性と女性性とが愛し合い、まぐわっているかのようだった。

それは、求め合うというよりは、満たされる感覚だった。三次元で触れ合うときのような、自分と相手との境を感じてそれにいらだつ感覚ではなく、たがいに境を開き合って、一つになり、満たされる感覚だった。それは、完全に愛し、完全に愛される感覚だと言ってもいい。自分を愛するとは、つまりこうしたことだったのだろうか? 自分の内なる男性性と女性性とが愛し合うこと? しかし、こんな風に自分の中で満たされてしまったら、もう人を必要としなくなってしまうのではないのかと、そこに何だか罪深いような感覚があった。こんな風に自分だけで完結してしまってはいけないのじゃないかと。しかし、その罪深い感覚こそは、植えつけられていた封じ込めだったのかもしれない。

するとそのとき、男と女が愛し合い、傷つけ合っている姿が意識のイメージの中に現れた。たがいに相手が自分の求めているものを与えてくれないと言って、責めていた。女は男性性が足りないので、欠如を感じていて、男は女性性が足りないので、飢えていた。どちらも欠如感の塊のようになって、ガツガツと求めようとしていた。

私たちは、こんなものを今まで女性性とか男性性とか思っていたのだろうか? 欠如感でガツガツしているような状態を? そして、その状態で求め合うことを、私たちは愛とか恋愛とか呼んでいたのだ。自分に足りないものを与えてくれるからと、相手に依存することをだ。そして、それが十分に与えられないので、愛されないと感じて傷つき、傷つけ合っていたのだ。

自分の中で女性性と男性性が交わり合い満たされるのを感じたとき、それまで愛と思っていたものが、禁断症状のようなものにしか見えなくなっていた。我を忘れて誰かに夢中になったりしたのも、渇き切って余裕がない状態だったからだったのだ。それで、傷ついて死にたくなったり、独占しようとしてやきもちを焼いたり、失う不安にさいなまれたりしていた。私たちはこれまで、こんなものを愛とか恋愛とか呼んでいたのだ。

200年ほど前から、産業資本主義が世界中に広がっていくに連れて、私たちは男でも女でもなく、労働力や消費者として、お金で測ることができるようなものにされていったのだと思う。その一方で、女は女らしく、男は男らしく、と作られた女性性、男性性を押しつけられていったのだけれど、それは結局のところ、大量生産される商品を次々と買うように駆り立てられるようなことにすぎなかった。女であることや男であることが、どんなものを消費して、どんなものを持っているかということで測られるかのような思い込みを植えつけられていったのだ。そうすることで、私たちは絶えず欠如感をかき立てられ、ますますお金に依存するようにさせられていったようなところがある。

アシュタルとこの会話をしていたのは、8年くらい前のことだったけれど、彼が示したものの意味がはっきりとわかるようになったのは、最近のことだ。3年前に奇妙なパンデミックが始まってから、この三次元世界の表層でどれだけの嘘がつかれていたのかが、表に出てきた。それまでは地球の人類が本質的に愚かなせいで、世界がこれほどにおかしいのだろうと思っていたのだけれど、それが実のところは、騙され、操作されていたからにすぎなかったことが、わかってきた。私たちがそれぞれ目の前の利害ばかりを追って、世界がおかしな方向へ向かっていくのを止めることができないでいるのは、まさしくそのようにあらゆる手を使って仕向けられてきたからだった。

だからこそアシュタルは、私たち地球の人間が、本当はもっと大きな存在なのだということを示そうとしていたのだと思う。そうでなかったら、私たちは、欠如感のあまり、たがいに争い合って、世界を壊してしまうだろうから。私たちは、この200年ほどの間、金融グローバリストたちによって、本来よりもずっと小さな無力な存在だと思わされてきた。男性は男性、女性は女性の役柄を演じていなければ、生きていけないように思わされ、本来持っている能力のごく一部だけを使うようにされてきたのだ。そのために、つねに欠如意識にさいなまれ、依存的になって、たがいに傷つけ合ってきた。

自分の魂の片割れがどこかにいるという幻想を持たされて、それで自分の本当の大きさの半分しか生きないようにされてきたのだ。自分に欠けたものは、その誰かが埋めるという風に思わされてきた。それがパートナー関係というものなのだと。しかし、自分には何かが欠けているという意識を持っていたら、やはり依存的な関係しか作ることができない。私たちの意識が現実を作っているからだ。欠如意識から関係を作れば、何かが欠けているという感覚をやはり持ち続けることになる。

実のところ、自分自身を完全に愛して、完全に理解することができるのは、自分だけなのだ。自分の内なる男性性、内なる女性性を生きることにしてみると、それこそが自分の魂の片割れだったということがわかる。そして、その片割れこそが、自分自身を完全に愛して理解し、支えてくれるのだ。その感覚を持てたとき、愛され理解され支えられる関係を、現実にも引き寄せ始めることになる。

二年前から、意識によって現実を変えるセミナーを自分でやるようになってから、人間関係の問題というものが、いかにその人に植えつけられた欠如意識によって起こっているかが、リアルな手応えでわかるようになった。欠如意識を消すためには、私たちが本来持っている大きさを思い出せばいいのだ。それまで生きてこなかった自分の部分、それまで使ってこなかった能力に自分を開いてみることで、欠如意識は自ずと消えていく。

女性が内なる男性性を解放してみると、男性的になるんじゃないかと思うけれど、これが現実には逆なのだ。男性性を解放すると、女性はグッと女性的になって、艶っぽい感じになったりする。男性の場合は、内なる女性性を解放すると、やはり同様のことが起こる。今までになく男性的になって、男の色気を発し始めるのだ。これは、逆説的に思えるけれど、やってみると本当にそうなのがわかる。内なる男性性が生き始めると、その男性性に支えられて、女性はもっと女性でいることができるようになるのだ。

「アシュタル、ツインソウルって何なの?」とあの頃、私は聞いてみたことがある。すると彼は、「僕が君のツインソウルじゃないか!」とさも当たり前のように言ったのだ。彼が、三次元的な所有の概念で言っているのではないのはわかる。すると、彼は言った。「誰だってツインソウルになり得るのさ。君にはわかるだろ?」

彼が伝えようとしている意味が、じわじわと身体に染み込むように入ってきた。彼が言っているのは、意識を向け合っている人間が、たがいの魂の中に入り込んで、一つになることができるということなのだ。今この瞬間に、私はアシュタルと意識を重ね合わせている。私はアシュタルになり、アシュタルは私になる。それで私は、私が生きていなかった意識の領域を満たすことができる。

アシュタルの心臓に火が灯っているのが見える。彼はその火を、愛おしそうに手の上にのせている。それは彼の愛なのだろうか? すると、アシュタルが言う。「君の愛さ。君のことを完全に愛して完全に理解している人は誰? 君だろ? 君の人生、君の世界への愛だろ?」

私たちは、自分は自分で、他人は他人で、たがいに完全にわかり合うことなどできないし、意識を一つにすることなどもできないのだと思ってきた。だけど、アシュタルの次元では、自分と他人というものは、そんな風にはっきりと分かれているようなものではないのだ。これは、チャネリングやリーディングをやってみたことがある人は、わかるんじゃないかと思う。意識の領域では、誰でも他の人の意識の中に入り込んで、その感情や情報を共有することができる。遠隔で愛の念を送り合うこともできる。これは、やってみたことがある人は、リアルに会うよりも、ずっと深い交流ができるのを知っていると思う。

ある魂に深くアクセスするとき、それはまるで、まぐわっているような感覚でさえあるのだけれど、それによって、たがいの感情だけではなくて、能力や経験まで共有することができるのだ。それは、三次元の領域で「理解する」と言っているようなことよりも、遥かに深い交流だ。それは、自分自身がより柔らかくなって開いていくような、使っていなかった領域が活性化されるような、そんな感じのことだ。それがまさに、「自分の魂の片割れに出会う」というようなことなのだ。意識の領域では、私たちはすべての魂と繋がっていて、そこにははっきりとした境界はない。すべてが自分の魂であるとも言える。だから、誰もが自分の魂の一部であると言うこともできるわけなのだ。

私たちがこれまで普通に生きてきた次元は4次元までで、これは直線的な時間軸の次元だ。次元というのは、現実を測るものさしの数のようなものだから、5次元になると、ここに時間軸がもう一本増えて、平面的になるのだ。6次元になると、時間軸が3本になって、空間的になる。これが、時間を自在に行き来でき、過去や未来を変えてくることができる次元だ。

これがさらに7次元になると、空間的になった時間の世界が、直線的に並ぶのだ。すべての時間を含む世界も、人それぞれによって違う。そのヴァリエーションが一本の軸上に並ぶのが、7次元の意識世界だ。8次元になると、軸がもう一本増えて、平面的になり、9次元になると、軸が3本になって空間的になる。これはつまり、すべての魂と自在に深い交流をすることが可能になる次元だ。ここまで来ると、銀河の人々と時空を超えて、自在に交流することができる。だから、7次元以上が銀河世界の扉だということになる。

かつて私が、地球が嫌になって9次元まで逃げていこうとしたとき、宇宙の真ん中で絶望的な孤独感を感じたのは、欠如意識から9次元に飛んでいこうとしたからだったのだろう。9次元は、銀河のすべての魂と自在に交わることができる次元なのだから、そこは孤独というものも存在しなければ、欠如というものもあり得ない世界なのだ。


2009年8月にオランダにできたクロップ・サークル


2023年5月28日


【弱さは、柔らかさだ】

アシュタルとコンタクトしていると、驚かされることが多いのだけれど、それは意識の次元が違うことから来ている。地球の三次元的な価値観からすると、悪いもののように思えるものに対して、アシュタルはとてもソフトな受け取り方をしている。私たちは悪いものを恐れて、それを排除しようとする。それが善いことで、強さなのだと思っている。だけど、アシュタルはそうしたものに対して、とても繊細だ。アシュタルの思考に触れていると、善いものも悪いものも、銀河のような光る粒子になって、空中を漂い始めるかのようだ。

たとえばアシュタルは、弱さについて、こう言っていた。
「弱さとは柔らかさだ。自分に対する優しさだよ。自分の弱さを抱きしめてごらん」
あの頃、私は自分の弱さに苦しんでいた。いや、私は強くあるべきだと思いすぎていたのかもしれない。自立していなくてはいけないとか、何でも自分でできなければいけないとか、誰かに依存していてはいけないとか、人の言うなりになって振り回されてはいけないとか、そういう価値観で、私たちは自分で自分を縛っていることが多い。それで私も、自立して自分の意志が通せていないのは弱さだと思い、強くならなくてはいけないのだと思っていた。

ところがアシュタルは、弱さは柔らかさであり、自分に対する優しさだというのだ。そう言われて、ふいに力が抜けた。弱くてもいいのだ。それは優しさなんだから。そして私は、自分の弱さを抱きしめる。それはとても繊細で柔らかく、暖かい。自分を愛するとは、こんなことだったのだ、と私は思った。自分を愛するとは、自分は優れているのだと思おうとしたり、自分のために高い出費をするようなことではなかった。そんなことは結局のところ、自分の価値をお金社会の基準で測って、高く売ろうとすることにすぎなかった。自分を愛するとは、そんなことではなく、もっと繊細なことだった。ただ自分の弱さを抱きしめるようなことだったのだ。

私たちは、強さという概念によって、自分に何かを無理強いしようとする。しかし、弱くてはいけないという理由で、自分に何かを強いるとき、自分の中が二人の自分に分裂する。無理強いしようとする暴君の自分と、無理強いされる奴隷の自分とにだ。それで、暴君の自分が、奴隷の自分をこき使い、劣等感を感じさせている。こんなパワーゲームを、私たちは無自覚に自分自身の中でやり続けてきたのだ。そしてそれを、強さだと思っていた。ところが、自分の弱さを抱きしめるとき、二人に分かれて争っていた自分が、一つになる。そして、自分に対するその愛が、すべての細胞を満たし始めるかのように、暖かさと優しさとに包まれる。

「君は強くなりたいの? 強くなることが硬くなることだと君は思っているだろ? 弱さは強いんだ。柔らかな強さだよ。それは硬さよりも強い」そう、アシュタルは言う。

何故、弱さが強いのだろう? それは矛盾しているように思える。しかし、自分の弱さを抱きしめたとき、不安に震えていた自分は、暖かくなり、愛に満たされる。それは確かに、強さと言えるのかもしれない。

私たちは、強さと硬さとを混同していたのかもしれない。強さとは、譲らないことであり、自分の意志を押し通すことであり、人や物や状況を自分の意志に従わせることだと思っていた。しかし、こうした概念は、支配の構造から来ているものにすぎなかったのかもしれない。支配する方が支配される人間よりも強いのだ、という上下の意識から来ているのだから。だから私たちは、支配する側であろうとして、より強くあらねばならないと思い、より高くあらねばならないと思っていたのだ。

支配する側であろうとし、より上の人間であろうとして強くなろうとするとき、私たちは硬くなる。硬くなると、自分の中に従わせる強い自分と従わされる弱い自分とが分裂して存在し始め、争い始める。こんなことを、私たちは強さだと思っていたのだろうか? 自分の中がつねに戦闘状態で、だから自分のまわりにも戦闘状態を創造し続けているようなことが? それは、いつも戦争をしている国が強い国なのだと思い込むようなこととも似ているようだ。

自分の弱さを抱きしめるとき、私の中のすべての部分が、柔らかくなり、繊細になり、自分がまるで銀河のような光の粒子でできているかのようだ。それは、ありのままの自分であることそのものであり、そのままの自分を、そのままの世界に開いていることだ。何も隠すものもなく、何も構えることもなく、何も恐れるものもない。それこそは無敵な状態だ。

どちらが強いかで争うのは、三次元までのことなのだと思う。物質的なものだけが存在していると考えたとき、支配している方が強いように見える。ところが、意識の領域が視界に入ってくると、支配している人間は、分裂していて、恐怖によって支配されていることがわかる。意識の次元が視界に入ると、支配する者は、同時に支配される者だということがわかってしまうのだ。人にしていることは、自分自身にもしていることだから。因果応報とは、意識の次元では、まったく同時に起こっていることがわかる。意識の次元でみたら、人にすることは、同時に自分自身にもしていることだというのが、はっきりとわかる。

無抵抗であるということは、実は最も強い。意識の領域では、念を飛ばされるというように、意識エネルギーの攻撃を受けることがある。呪いだとか怨念だとか言われているようなものだ。これには、呪いをかける方の黒魔術的な呪術師と、呪いを解く方の白魔術的な呪術師とがいて、戦っている。呪いを解く呪術師たちは、結界を張るようなことをして、攻撃的な意識エネルギーを無化したりするのだけれど、実はもっと簡単で確実な方法がある。それは、無抵抗で受け留めてしまうことなのだ。

これは、意識の相対性ということが視界に入ってくる7次元以上の次元になると、その通りなのがはっきりとわかると思う。それは、その次元になると、現実というものは、それぞれの人の意識が作り出しているものだということがわかるからなのだ。呪いの原理というのは、実はこのことを利用している。呪いをかけたい相手に、呪いをかけられたということを意識させると、その人は自分からその通りの現実を作り出し始めてしまうのだ。だから、呪いを恐れていない相手には、呪いをいくらかけても、効かない。だから、このことを知っている呪術師は、結界を張ったりする代わりに、「呪いは解けました。もう大丈夫です」とほがらかに笑って言うのだ。それで呪いをかけられた相手が安心したら、もう呪いはかからない。

だから、どこかから攻撃が来るような不安感を感じたときは、しっかりグラウンディングした上で、「何者も私を傷つけることはできない」と自分に言って、その攻撃的な力を無抵抗で受け留めると、その力は攻撃的であることをやめてしまう。これはやってみるとわかるけれど、まるで身体を素通りするように入っていって、後ろから出ていってしまうのだ。そして通っていくときに、自分の中の恐れや不安、罪の意識などのモヤモヤした感情も持っていってくれるのがわかる。害を受けるのは、実は自分の中に抵抗があるときだけで、抵抗さえなければ、害を受けることはない。これを体験すると、無抵抗がいかに無敵かということが、実感としてよくわかる。

恐怖に駆られると、私たちは硬くなる。防衛しようとして、身体に力が入る。そうすると、攻撃を引きつけるのだ。それは、意識が現実を作っているからだ。攻撃から身を守らなければならない、と恐怖に駆られていると、その通りの攻撃を引き寄せる。そして、攻撃に抵抗しようとして、害を受けてしまう。

事故に遭ったときに、反射的に完全に放棄してしまうような心境になって、全身の力が抜けたために、奇跡的にほとんど無傷で助かったというような人が、現実にいる。しがみついたまま死んでいきたくないと思って、ふっと力が抜けたのだそうだ。抵抗がなければ、害を受けないのだ。受けた衝撃も、身体の中を素通りしていってしまうのかもしれない。そうやって奇跡的に助かったような人は、何かを恐れて構えるのを、すっかりやめてしまったりする。あれこれの危険に備えて、予防策を講じたりしなくても、何かもっと大きな力に守られていることを、知ってしまうからなのかもしれない。

私たちは、こういう危険に備えて、こうしなければならないとか、あれこれのことを思い込まされていて、実のところはそれによって、かえって害をこうむることになっていたりする。火傷のときは水で冷やすのだと思い込んで、ジャージャー水をかけていると、実は火傷はかえってひどくなって、大きな水膨れができたりする。火傷のときは、温めた方がいいのだ。少なくとも、水で冷やすくらいなら、何もしない方がいい。火傷した部分は熱くなっているけれど、そうすると血流が刺激されて、免疫システムが活性化する。その力がよほど効果的に火傷の箇所を冷やして、壊れた組織を修復してくれる。

何もしないで無抵抗でいると、もっと大きな力が働くのがわかる。私たちの身体でも、人間関係でも、自然環境でも、自然にバランスを取り戻そうとする力が働いている。そして、多くの場合、私たちは抵抗しようとして、その力に逆らって動いている。だから、自分で何とかしようとして、あれこれとがんばるのを放棄して、あきらめてしまった瞬間に、急速に事が収まっていくことがある。「手放した瞬間に流れに乗る」ということが、この頃よく言われているけれど、あれはまさにそういう原理で起こっている。抵抗するのをやめると、攻撃を引き寄せなくなるからだ。

弱さについて、アシュタルに教えてもらっていた頃、私はまだこうしたことをわかっていたわけではなかった。アシュタルとコンタクトを始めた10年前から、私は光と闇とを統合するということを、少しずつ学んでいたのだと思う。それはまさに、戦うのをやめて、もっと大きな力を知り、それを信頼することを学ぶプロセスだったと言える。この200年ほど、世界は国際金融資本家たちに支配されていき、すべてが支配する側とされる側に分かれて、戦い続けるようになっていった。それで私たちは、絶えず自分の思うようにしようとして、身も心も頑なになって、結局そのことによって、支配されてしまっていたのだ。

今、世界で一極支配の構造が崩壊して、多極的な世界の調和ができていこうとしているけれど、それはまさに、支配しようとするのをやめたときに、もっと大きな力が動き始めるということと似ているようだ。そういう世界がだんだんと目に見えるような形になってきて、あのときアシュタルから受け取ったことが、こういうことだったのだとわかり始めているのかもしれない。

「地上は荒れ狂う嵐。
それでいいんだ。
制御しようとするな。
流されろ。
ゆだねてしまえ。
己の弱さを認めるんだ。
弱さとは、すばらしいものだ。
それは柔らかさ。
大きな愛だ。」

ー 2014年に受け取ったアシュタルからのメッセージ


2017年7月にイギリスにできたクロップ・サークル


2023年6月2日


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