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娘に読まれるなら10年後で、

これから書くことは、秘めなくてはならない出来事だ。
特に、娘には読まれてはならない。
娘はこの春、中学生になる。
私がこの記事を書いていることも知らないし、このサイトに上がっていることも知らない。
このサイトにお世話になっている自分がこう書くのもなんだが、娘がこのサイトをこの先10年くらいは閲覧しないことを祈る。

しかし、この出来事は文字に起こしておきたい、そう強く感じたのだ。

ことの起こりは、ピアノを弾き終わったとき。

ピアノは娘の部屋に置かれており、私は出入りを許されている。
娘の部屋は娘によって既に荒らされていた。
床に様々なもの達が所在なさげに放置されている。
ちょうど、ピアノの椅子の下に目を落とした。
卒業を間近にひかえた頃に書く、将来についての作文らしき文章だった。
最近娘は作文を見せてくれない。
私は、猛烈にその文章を読みたくなった。

軽い気持ちで、文字を目で追った。

拾ってしまうと読んだことがバレるからだ。

そこには、日常の光景がありありと描かれていた。

仕事が休みの日、緩やかに流れる1日の流れ。

娘は仕事休み、犬の散歩をして朝食に肉じゃがを食べる。
午後は映画をみながらワインを一杯。
夜は友人と遊びに出る。

そんな文章だった。

大笑いである。

それは犬の散歩こそしないものの、私も過ごしたことのある休日の一場面だったのだ。

先生は「自分がどういった人間に成長しているのか」そこの記述が欲しかったらしく、そのようにコメントしていた。
さて、どんな文章が完成したのか(または、これからどう完成するのか)。
きっとその文章はアルバムだったり、何かしらの形で私も読めるのだろう。

私は今から、娘への謝罪のシュチュエーションと言葉を考えている。
10年も経てば笑い話にしてくれるのではないか、そんな思惑もある。

それにしても。

この初稿であろう文章がエッセイで書かれていて「犬」「肉じゃが」「ワイン」と少しずつ書き手の人物像を想像させるモチーフが散りばめられ、今まで大してみていない「映画」という憧れであろうモチーフが出てくる。
これが小学生の書く作文なのかと、驚いた。
先生の期待からはずいぶん離れた文章であったにせよ、娘の等身大の姿を見れて楽しく読んだのではないかと推測する。

そう、娘は先生が好きなのだ。
年配で、おっちょこちょいで、おおらかだけれど厳しい。
小姑のように小言は言わない。
(娘の評価)

そんな先生だからこそ、こんな文章が書けたのだと思う。

実は私も、高校の頃一つ目の小論文の添削で私小説を書いたことがある。
先生は「これはエッセイだね」と言った。
そして「エッセイとしては面白いし、よく書けている」とも。
そうして小論文の文章の構成を教えてくれた。
先生は私の文章を形式的に否定し打ち砕いたりしなかった。
そんなわけで私も文章を書くことを面白く感じたまま、大人になった。

この先10年後、娘が笑ってこの文章を読んでくれることを祈る。

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