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祖父との別れ。

2月5日、日曜日の朝。
いつも通り起きてスマホを手に取りLINEを開いたら、父から家族LINEでみんなに等しく送られたメッセージ。

そこには祖父が亡くなったことが記されていた。

決してスピリチュアルに精通しているわけではないのだが、でもどこかで知らせてくれるものと信じていたのに、その日私にはなんの予感もよぎらなかった。「ああ、おじいちゃんは誰にも知らせずに行ってしまったんだ」となんとなく思った。

ずっと覚悟はしていたこと。

ほぼ寝たきりのような状態で、認知症も進み、施設と病院とを行き来して過ごしていることを知っていたからこそ、その「いつか」は決して遠くないことをどこかで知っていた。

それでも朝から涙が止まらない私を慰めてくれたのはもうすぐ3歳になる息子で、「まま、だいすきだよ」と何度も何度も言ってくれ、その小さな手に抱きしめられるようにそこにいた。


私にとって祖父は、スーパーマンだった。

高校生のとき、球技大会で足を怪我してギブスになったことがあった。その時、高校まで愛車のベンツに乗ってカッコよく迎えに来てくれ、その後も足がよくなるまで、毎日毎日高校まで送ってくれたのだった。簡単に「送ってくれた」というが、市の北側の我が家から南側の高校までの送迎は容易じゃない。

嫌な顔ひとつせず、送ってくれて、その車の中でいろんな話をするのがあの時の私の楽しみでもあった。


私と祖父

あるときはこんなこともあった。

高校の美術の授業で、木彫りの作品を作ることがあり私は鳥を掘っていた。

それは祖父が木彫りで鳥を作っていたからで、その作品たちをみていたから自分でも作りたくなったことがきっかけだった。しかしやってみたら簡単ではなく、思うようにできず「すこしだけ整えてもらえる?」と持ち帰ったら、ほぼ完成された鳥フォルムになって返ってきた。

こればっかりは美術の先生にも嘘をつけず、「祖父に少しだけ整えてもらったらこんなに綺麗になってしまった」と正直に打ち明けた。明るく愉快な先生は私を咎めるどころか「おじいちゃん上手ね!」と褒めてくれ、すごく嬉しかったことを覚えている。


葬儀場を彩ったのはもちろん祖父の掘った鳥たちだった。

晩年、祖父は少しずつ認知症がすすみ、それもあってかとてもネガティブになり特定の小さなことなどに執着するようになった。

元々几帳面な性格もあってか、鬱も持つようになり、すごく生きにくそうに見えた。しかしながら私が知る祖父は本来とても明るくて、ジョークをたくさん言ってくれて、多趣味で、おおらかで、優しい。

そんな面影を抱きながら葬儀場へ行った私は、亡くなった祖父の顔を見た時にびっくりした。

信じられないくらい痩せてしまっていて、私の記憶の中の祖父とはまるで違ったからだ。最後に会ったのは祖父の自宅で私がラーメンを作りにいって一緒に食べた時だった。

その時も確かに痩せてしまっていたが、それ以上の姿に、会えない間にどんな日々を過ごしていたのだろうかと悲しくなった。

祖母も祖母で認知症が進んでおり、今は同じ施設に入っていた。

祖母は祖父が亡くなったことがわかるだろうか、と少しどきどきして迎えた葬儀の当日、遺影の前に車椅子で向かい合った祖母は、ぼろぼろと涙を流していた。

息子である私の父や、私たち孫のことは忘れてしまっている時もあるけれど、長年連れ添った祖父のことはわかるんだなぁと、考えてみれば自然のことなのかもしれないけれど、涙が止まらない祖母の姿に寄り添った二人の人生が見えた気がした。

祖母は明日になればこの事実すら忘れるかもしれない。それでも今この時だけでも、寄り添えたことがよかったと思った。

しばらくしてもなかなか整理がつかなかったのは逆に私の方だった。

祖父は一人で逝ってしまったのだが、そのとき何を想ったんだろう?
できれば看取ってあげたかった。今や誰もいない祖父母の家を想像するだけで、また笑顔のじいじが出てくるんじゃないかと思ってしまう。

実家にある遺骨が祖父だと思えない。

初めて近しい肉親を亡くした私は、どういう風に整理したらいいのかわからずに、頼れるものが何もなかったため「今こそ見るべきだ」導かれるようにリメンバーミーを観た。

描かれた死後の世界。
それは驚くほど綺麗な場所で。
骨になった祖父が愉快な姿でそこにいることがすごくしっくりきた。

そして忘れなければ生き続けるということ。
日本で言うお盆には会いに帰ってきてくれると言うこと。

その世界観は私にとっての救いであり、心の支えだった。

「声を合わせ僕ら家族
歌いながら伝えよう。
みんなの思い出とともに
生き続けるいつまでも。」

もうすぐ訪れるお盆のその日には、きっと私たちに会いにきてね。

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