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会社を立て直そうとしたら、大好きな街に戻ることになった

個人事業主から法人化して、2023年11月で3期目が終わり、4期目を迎えた。毎日何かのミッションが終わったらまたすぐに別のミッションに取り掛かる、という慌ただしい日々だった記憶なのに、振り返ってみれば独立してから初めて、減収減益になった。今年はうまくいかなかったことも多く、そのうえ利益も上がらずで、自分の会社が世の中から必要とされていない、という事実を突きつけられたようでしんどかった。

決算が終わり、真っ赤に染まった決算書を見ながら税理士さんと「この先どうする?」という話をした。

①売り上げをすぐに上げるのは難しいので、固定費を減らす
②会社を休眠して個人成りする
③会社をたたんで就職する

②と③の可能性について考えながら、自分はそもそも何のために会社を作ったんだろう?ということを思い起こしていた。

夫婦関係を解消して、それまで暮らしていた釧路から生まれ育った札幌に一人で戻ると決めた時。フリーランスのままでいることがどうにも心許なく不安で、法人成りすることにした。大きなビジョンがあるわけでもない。ただそれだけのきっかけで始まった「ワッカ」という会社が、今では自分の大切なアイデンティティの一部になってしまった。

ワッカという名前はアイヌ語で「水」という意味だ。法人化する前、会社名を見つけるために長野に一人旅に行って、戸隠の神社を訪れて滝を見たとき「ああ、これだったんだ」と気づいた。「水」だったんだと。

ひとつの土地でがんばっている「土の人」に憧れがあった。そこに風を吹かせる「風の人」に対する憧れもあった。でも自分はそのどちらにもなれない。ふらふらして中途半端な存在。そう思っていたときに目の前に流れる「水」という存在に気づいて、ああ自分はこれなんだなとしっくりきた。

形は無い。色も無い。周りの存在によって変化する。常に流れていくもの。誰かの成長をサポートするもの。そして生きものにとって必要不可欠なもの。人に寄り添って、主張することなく生きる。水という佇まい、存在そのものが私がデザインをして体現したいあり方そのものだと思った。だから会社名をアイヌ語で「水」を意味する「ワッカ」とした。
そんな軽やかな存在になりたかったのに、どうしてこんなに淀んでしまったんだろう。

最近はコロナ禍で苦心しているお客様から、なんとか事業を立て直したい、というご相談をいただくことが多くなった。お話を聞いていると、なんとしてもこの会社さんを助けたい、デザインで役に立ちたい、という気持ちが強く芽生える。そのためには事業理解をして、社会情勢にもアンテナを立て、お客様に寄り添い、よいアウトプットをし、さらに成果も上げ…と、これまでよりもより力を出さないといけない場面が増えた。「インパクトのある提案をお願いします」「なんとかリブランディングを成功させて事業をV字回復させたい」とお客様の期待値も高くなって、プレッシャーを感じることも増えた。プレイヤーとしてデザインをしているだけだった時とはまったく違うフェーズに突入した、と感じた。

と言っても、法人化して飛躍的にスキルが上がったかというとそうではない。もともと器用な人間ではないので、トライアンドエラーを重ねながら積み重ねていくしかない。とはいえ日々求められることは増えていく。自分が何とかしなくては、会社としてこうあらねば。

という気持ちが強くなりすぎた結果、空回りしてしまうことが増えてしまった。リブランディングのプレゼンで「まったくピンと来ない」と言われ、再提案になったこと。自分の関わり方や進め方の問題で、「このプロジェクト自体を辞めたい」と言われ、案件自体が無しになってしまったこと。初めて経験する挫折の連続だった。自分の力不足が悔しくて不甲斐なく、何度も涙が出た。

今振り返るに、自分が何とかしなくては、会社としてこうあらねば。そういう気持ちが強くなった結果、お客さんにはお客さんの事情がある、という発想が抜け落ちて、良かれと思った提案を押しつけてしまっていたんだと思う。それはある意味傲慢な態度だったし、おこがましかった。

そういう意味でも、自分にとって戒めという意味でもワッカという社名は自分にぴったりだと思った。永遠に到達できないからこそ、そこを目指して歩き続けることができる。

だから辞めたくない。諦めたくない。

デザイン高専を20歳で卒業して、社会に出てデザインを始めてから27年。いろいろなことがあったけど、デザインだけは辞めなかった。どんな場所にいても、どんなことがあっても、誰に何を言われても、デザインは続けていく。一生かけてやっていく。一生かけてやるだけの価値が、デザインにはある。私はまだ何もできていないし知らない。やれることはまだまだある。

生まれ故郷である北海道に戻ってきたからこそ、当事者意識が芽生えた。会社員を辞めて独立したときも、勝手に使命感を抱いて地域のデザインに関わっていくことにした。こんなにいい資源があるんだから、こんなに素敵な人たちが居るんだから、もっとデザインで光を当てたい。もっと魅力を伝えたい。この土地はもっともっと良くなれる。ポテンシャルがたくさんある。そこに自分はデザインで関わっていきたい。一緒にこの土地を熱意を持って耕していきたい。

私にとってデザインはもはや仕事ではなく、生きることそのものだ。だから、もしデザインの依頼がまったく無くなって、デザインが必要とされなくなったら、この世から居なくなってもいい、と本気で思っていた。

けど、会社は社会の要請がないと存続できない。必要とされなくなったら辞めよう、と会社設立当初は思っていたけど、本当にそれでいいんだろうか。死ぬ気で努力したのか?まだまだできることはあるんじゃないか?

そんな時に税理士さんから提案されたのが「釧路に戻るのはどうですか?」だった。実は札幌に戻ってから元夫と関係が回復して、札幌と釧路の二拠点生活を送るようになっていた。釧路に戻れば、毎月の家賃や光熱費、二拠点生活で膨らんだ車両費を一気に無しにできますよね?と。

正直、考えなかったわけではない。でももう戻れないと思っていた。札幌でがんばると決めたから、戻ってはいけないと思っていた。けどその提案をされたときに真っ先に湧いてきたのが「釧路に帰れる」という気持ちだった。帰ってもいいんだ。

釧路は元夫の故郷というだけで、縁もゆかりもなかった街だ。なのに、いつのまにか私にとってはかけがえのない場所になってしまった。

幣舞橋から見える圧倒的な夕日。市街地を抜けるとすぐに見えてくる釧路湿原の茫漠とした景色。お蕎麦屋で見かける「無量寿」「種込み」「抜き」という独自食文化。繁華街のすぐ横の湾岸で霧のなか爆音で音楽をかけて盛り上がる霧フェス。寒いことを逆手にとってお盆過ぎに開催される「ヒヤ(冷や)ガーデン」。廃業した本屋の居抜きで入居したローカルスーパーの壁にはいまだに「BOOK STORE」の文字。なぜか絶品なお寿司が出てくるカラオケスナック。この釧路の人たちの「まあいいしょ」的ないい意味でのほがらかさ。さいはての地でたくましく愉快に生きる釧路のひとびとが私は大好きだ。

自分が事業者さんを応援する立場なのに、苦しい姿を見せるのは恥ずかしいことだ、と思っていたので、今年は何も発信ができなかった。内面を吐露することが怖くて、去年は毎月発行していたニュースレターも一本も出せなかった。けどこのままだと先に進めない、と感じたので、2023年最後の日にようやくnoteを書くことにした。

2024年の春過ぎを目処に、札幌から釧路へ戻ります。とはいえ札幌に実家があるので、これからもたびたび札幌には通うことになると思う。

またいちから出直すつもりで、2024年を迎えます。2024年を終えるとき、「続けていてよかった」と必ず思える一年にします。

今年も一年お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いします。

もし少しでも琴線に触れたらスキをしていただけたら嬉しいです。励みになります。