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蒲生田先生と木島理生と「春的生活」のこと【インディゴの気分 続・春的生活 考察】


 祝!!「劇場版ポルノグラファー〜プレイバック〜」公開!そして、「春的生活」「続・春的生活」配信!! すごいぞーーー!!夢が叶った。もう怒涛の供給に息も絶え絶えです。
 さらに今現在、ドラマ「インディゴの気分」が地上波再々放送されました!(3月16日0:24〜 5、6話放送でした)
 さて、2019年2月のことを振り返りますと、丸木戸マキ先生の「続・春的生活」はすでにon BLUE誌上で発表されており、2月25日にon BLUEに「續・ポルノグラファープレイバック」1話が掲載され、2月27日にはドラマ「インディゴの気分」1話が配信されました。
 ただただ「続・春的生活」の最終回に心打たれ、ドラマ「インディゴの気分」が始まって、めくるめく濃厚な映像の渦に巻き込まれ溺れる日々でした。この考察を書いたのは、「インディゴの気分」4話が配信される直前のことです。
 ご新規様の熱に触れるうち、当時の熱が蘇りました。リアタイ時考察(プライベッター)の再掲第4弾です。
 ということで以下、「インディゴの気分」4話以降、「春的生活」「続・春的生活」については原作について書いております。ご了承ください。
(ドラマの4話〜6話を観た今となっては、ドラマベースの解釈はこれとは少し違うものになりました)
 こうして、全てのお話が映像化されるなんて、知るよしもなかったなぁ。願いが叶う勢いが怒涛すぎて、まだふわふわしている。

(「インディゴの気分」配信リアタイ時 2019年3月20日稿)
どうしても「インディゴの気分」配信4話の前に、書かねばならない気がした。3話の蒲生田先生の引力にやられたことがトリガーになって、「続・春的生活」まで想いを馳せました。未推敲。とても長いです

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 ドラマは、最後まで創作者である蒲生田郁夫と、普通に見えて人を惹きつけてやまない城戸士郎と、まだ若くてかたい木島理生が蕾を開かせていく話だな、と思った。
 ドラマの城戸さんは、大変人間味のある人物で、理生がそこに魅力を感じていることがよくわかる。理生もまた、本来の純真が露になっていて、二人のバランスが素晴らしい。よく合っているからこそ、情動が直に伝わってきて、心が揺さぶられる。さらに、場を支配し、二人の関係を変成させていく蒲生田先生の圧倒的な存在感。
 今回は、創作者蒲生田先生の切り口から、木島理生という人について考えていきたい。

●「春的生活」
 官能小説家の蒲生田先生が「春的生活」と言うならば、それは春(はる)ではなく春(しゅん)なんだろうと思う。性的なものを含む春。「春的生活」は遺作の作品名でもあり、原作4話の題名でもある。原作4話はホテルになだれ込んでから、「城戸……」まで。
 原作4話「春的生活」は、配信3話、「理性の限界を超えた目覚め」に描かれました。まさに理生さんの春の目覚めですね。
 そしてポルノグラファーの番外編、「続・春的生活」は、「春的生活」の「続」、「春的生活」の先に繋がるもの。それはまさしく春、雪解けた、新たな目覚め、と取ることもできるかもしれない。
 まずは、「インディゴの気分」に出てくる二つの「春的生活」について考えてみたい。
 遺作の「春的生活」が、なぜ原作4話の「春的生活」と同じタイトルなのか。
 それは、蒲生田先生が、理生の春に、感じたものを書いたからかもしれない、と思った。

●蒲生田先生の欲望
 蒲生田先生には、最後に納得のいくものを書きたいという執念があった。とくにドラマ版の蒲生田先生は、創作者としての色合いが濃いように感じる。
 戯れに仕掛けた遊びが、思いがけず良かった。城戸に口淫する理生を見て、久しぶりに勃ち興奮した。原稿をしていて、ふと思いついたように顔を上げ、理生の元へ行く。それはきっと、創作の中に理生の姿が過ったからだ。蒲生田先生は、真実、自分自身の欲望を描いてきた。実践主義でもある。そんな蒲生田先生が、生で得た官能を書かないはずがない。 もちろんそれは、理生に説いたように、体験そのものというより、そこある欲望として。蒲生田先生が理生を弟子にしたのは、理生の秘めた欲望が、蒲生田先生を刺激したからだと思った。
 そしてそれを経験として知っていたからこそ、理生さんは後に、久住くんに抱いた愛欲や創作意欲に魅かれ踏み入ってしまったような気がする。

●理生の「色気」の在処と、その目覚め
 では、蒲生田先生が興味を示した理生の「妙な色気」と、理生がどうして蒲生田先生の要求に応えたのか、ということについて、もう少し考えてみたい。
 私は、どうしても理生の創作の闇を考えずにはいられないので、ついそこに焦点を当ててしまいがちなのだが、ドラマの理生は行き詰った作家であるというより、寂しさを抱えた一人の青年に映る。それに、ドラマの城戸は、とても人間味のある人物に描かれていて、作家としての理生を肯定するまでもなく、理生が心を開いていく様が自然に感じられる。だから、二人の感情も関係性も、クリアに鮮明に、ストレートに、胸に突き刺さる。
 自分を見捨てなかった城戸に、理生は、恩を感じていた。
 理生はきっと、自分は、捨てられても仕方がない、必要とされない存在だとどこかで思っている。父親に認められなかったこと、才能への疑心、それらから植え付けられた無価値感は、いつも理生さんを寂しくしていたのではないかと思う。だから、「続・春的生活」で理生さんがハルくんに、「捨てないでくれよ」と言えたことには、心から泣いた。
 作品は全部読んでファンだと言ってくれた、醜態をさらしても、面倒みよく優しくしくれる、未知の官能小説にも、編集者として親身になってくれる、城戸。そんな城戸が、どうしても取りたい仕事だと、この手で出したい本だというから、理生は、蒲生田先生の弟子になることを引き受けた。
 そして、些細なミスで仕事を失敗し、蒲生田先生に無碍に追い払われ、自尊心を傷つけられた城戸を目の当たりにする。
 そして、理生は、蒲生田先生に、弟子になりたいのは自分の意思だと申し出る。
 そこで、理生を突き動かしたものは何だったのか。
 単に、城戸を助けたかっただけか? それだけではない気がした。
 城戸を放っておけなかったというのは、その通りだけれど、理性の裏側に、自分しかその状況をどうにかできないという危機回避的な興奮があった気がする。城戸から得る承認への期待も含んだような。城戸のため、という枠を超えて、その先で得られる、城戸から与えられる何かを期待した。理生が、城戸との生活の中で、もっと、と求めたもの。それは、きっとたぶん、理生が初めて城戸に手を伸ばした瞬間だった。

「なんでも、やらせていただきますので、お願いします」

 そして蒲生田先生は、その匂いを嗅ぎ取り、「妙な色気」と表した。城戸を得たい欲求を見抜いた。そしてそのためなら何でもしてしまいそうな危うさが透けてみえた。だから「女の真似事ぐらい、やってみせろ」と、本当にどこまでやるか、試してみる気になったんだと思う。
 そして、ここからがまた面白い。
 今までの理生の行動が、理生の内なる欲がさせたことだとしたら、この先の行動は、おそらく、外的な刺激に対する反応なんじゃないかな。
 蒲生田先生の無茶振りを、「僕は構わない」といって踏み越えさせたものは、もっと直接的で能動的な感情ではないかと思う。承認されたい欲とはベクトルが違う。それはむしろ、蒲生田先生に向いたものだ。気概、プライド、大事な男の真剣な仕事を、下種な交換条件に貶められたことへの反発。覚悟というよりは、ほのかな昂ぶりの上に乗った、衝動じやなかったかな。

「なんてことないだろ、このくらい」
 
 そして城戸は気圧される。
 理生のあの虚脱と放心は、そこからの落差と、気づき。春が目覚める。

●師 蒲生田郁夫
 そうして、原作4話の「春的生活」が始まる。
 蒲生田先生は、理生に「スケベの才能あると思うよ」と言う。それは、潜めた欲望そのもののことから、さらに、欲望に身を投げ出してしまえる、潔さ、真っすぐさのことではないかと、思った。恥やプライドに囚われず、鍵が開くこと。そのある種の素直さはきっと、受け入れ認めて欲しいという欲望とも無関係ではない。
 そしてまた、蒲生田先生が書いていた「春的生活」についても考えたい。
 蒲生田先生は、多分、理生が自室でしていたあれこれや、城戸とのそれも知っていた。それらはきっと、蒲生田先生の書く欲望の中に、描かれている気がしてならない。
 そうした蒲生田先生の官能小説家としての在り様を、城戸は敏感に感じ取った。そこにある欲望に煽られ、嫉妬した気がする。
 しかし、蒲生田先生にとっては、それこそが師として弟子へ送るギフトだ。口で創作を説くことは簡単だ。でも、最後に、理生に語った蒲生田郁夫の生き様そのもののやり方で、創作の髄を見せてやりたい、と思っても不思議ではない。迷いの中にある弟子に、見せてやりたいんじゃないか。そして、それ以上に伝わる方法などない。
 だから、理生さんにとって「春的生活」は「大切な思い出」なのだと思う。

●「春的生活」の口述筆記と、理生が書いた最後の2割。
 でも、蒲生田先生は結局、最後まで書き上げることができなかった。
 最後の2割を、理生が仕上げた。それは、どういうことなんだろう。
 これは、もう妄想に近い想像かもしれない。
 理生にとって、蒲生田先生の原稿を書き取る時間は、蒲生田先生が身をもって教えた創作の在り方と、城戸への恋情と欲望に向き合う時間でもあったのではないか。
 「春的生活」には、蒲生田先生と理生だけに見える絆みたいなもあったらいいと思う。そこには、蒲生田先生の欲望と、蒲生田先生の筆によって描き出される理生の欲望があって、それを見つめることで、城戸の仕打ちに傷ついた理生の心が少しでも癒されていたらいいと思う。
 不詳の弟子を心配していた蒲生田先生は、最後にそれを理生に預けた。託したということではなく、預けた。だから、理生は
「でも先生にはもう必要ないんだよねそういうものは...」
と言った気がする。
 理生は、蒲生田先生の2割を仕上げることで、自分に向き合い城戸とのことを納得させた。カタをつけた。だから書き上がるまで城戸に連絡しなかった。
 仏前で、城戸に「蒲生田先生だけでなく、君のために仕上げたんだから」と、理生がわざわざ言ったのは、蒲生田先生が描いた「僕の物語」だったからじゃないか、なんて、いくら何でも穿ちすぎかな。

 しかも、この経験が久住くんの口述筆記のカタルシスに繋がっていくのがもう。
 孤独な理生が、寂しさを紛らわせるために、口述筆記という方法を取った意味を考えてしまうよね。
 蒲生田先生が示してくれた創作の真とは程遠い、一度書いたもの写し。別に何も、意味なんて、ない。書くことができない、無力と無価値。蒲生田先生との時間を、久住くんとのそれに重ね、なぞったのだとしたら。その自虐に眩暈がする。
 でも、書きたい、という真に欲望する自分を解放できた時、理生は、愛欲のエクリチュールを書く約束をする。そして、「春的生活」の先の先で、理生は「続・春的生活」に辿り付くんだな。

 はぁ、潜りすぎか酔いすぎか。こんな真昼間にまた原作読んで、蒲生田先生のところで泣き咽んでいる。これから先のインディゴの気分に、私耐えられるんだろうか。勝手な解釈で胸が張り裂けてちゃ世話ない。

●城戸にその先を言わせなかった理生
 そして、仏前で、城戸にその先を言わせなかった理生についても想いを馳せたい。
 理生は、結局やっぱり、城戸を受け容れることはできなかった。
 私には、城戸をどうこうしようとか、城戸のことを思って、というより、理生自身がそうやって、カチリと扉を閉じた、みたいに感じる。久住くんの告白を受け入れなかった時の頑なさに通じる、これ以上失うことへの恐れ、これ以上傷つくまいとする、無自覚の防御みたいなもの。
 多分理生はそれほど、人に対して、どうこうしようと思う心の余地を持っていない。自分のコップは自分でいっぱいだ。
 城戸との生活で手にしかけた幸せのようなものは、理生の思い描いた純白ではなくて、黒の混ざった不誠実な紛い物だった。
 掛け違ったボタンはもとには戻せない。城戸とのその先を信じられず、また傷つくことを怖れて、心を閉じた理生を、責めることはできない。
 なんかそう考えると、仏前での「一発」は、城戸に心を閉じていながら、全てのを取り払り、欲望を開いて見せたということだ。それは、蒲生田先生への最高の弔いだと感じる。不思議だな。
 理生には自分しかない。だから真っ直ぐに見える。
 理生には結局また、自分しかなくなった。城戸が真っすぐには生きられないのと同じように、理生もまた、真っ直ぐにしか生きられない人だ。
 だから、力なんか抜けなくて、蒲生田先生が心配したとおりになった。
 ああそうして、「続・春的生活」。この春的は、きっとやっぱり春(はる)なんだと思う。
 蒲生田先生が言った、「このまま春になっちまえばいいのに」という言葉、それは、春を見届けられればいいのに、という風にも取れる。人生を削るような捨て身の創作姿勢には限界がある。このままだと、理生の行く末にはないかもしれない春をさ。心配していたよね。

 異論あるとおもうけど、今のところの所感。

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◆「続・春的生活」のこと
「続・春的生活」で、理生は
「幸せな人間に文学はいらない」 
「満ち足りた人間に、寂しさを感じない人間に、文学や芸術なんて必要ありませんよ」 
 と言う。
 愛で満ち足りた人間に、愛されて寂しくない人間に、文学なんて必要ない。寂しさや孤独があるからこそ、創作ができる。だから、自分はそれでいい。そう思って納得させたのではないかな、城戸とのことを。
 だから、蒲生田先生亡き後も、鬼のように仕事をこなした。そう思っていたのに、その満ち足りなさは結局、理生を救わなかった。創作の糧になるどころか、返す刀になった。
 孤独は、逆に理生さんを追い詰めた。寂しさは欲望を摩耗させ、とうとう空っぽになった。そして蒲生田先生の憂慮のとおり、潰れた。創作の限界という闇が、真に理生さんをぐちゃぐちゃにした。その寂しさを乗りこなせると思った己の傲慢さや浅はかさに、理生さんは打ちのめされただろうな。そして、孤独は自業自得、と言った理生さんの言葉が、尚更胸に痛い。。
 ベッドの蒲生田先生と話しているとき、理生は、城戸を切って、父のような蒲生田先生との別れも近づいていて、きっと寂しくて孤独が怖かった。この時の理生には、満ち足りた幸せは自分から遥か遠いところにあるように思えたと思う。
 でも、久住くんに出会い、寂しさを紛らわせたくてバカなことをして、でも、満たされる喜びを知った。

 そして、理生さんは、幸せな春を受け入れてもいいと思えた時、蒲生田先生に宝物の春君を見せに行った。幸せな人間に文学はいらない、と思っていた理生さんが、幸せな気がする、と言い、やっとやっと、春君と一緒に歩くことを自分に認め受け入れた。
 理生さんは二度、削り取る物がなくなったら、書けなくなる苦しみを経験している。父親との確執を曝け出した時と、城戸がまっとうな父親になった時。きっとまだ、真の才能なんてものは、信じていない。
 真実を晒して削って、それが創作になると思っている。だから、久住くんとの未来を選んでも、同じ事の繰り返しだと思った。久住くんに感じた愛欲を削って書いて、関係が終わったらまた書けなくなる。そんな苦しみにはもう耐えられない、と根本の創作をやめる決意をした。
 たとえ久住くんと愛を交わしても、書きたいという真実を認めることができたとしても、繰り返す疑念を打ち消すことはできなかったから、久住くんを置いて行った。
 先生の傷は深くて孤独の闇は暗くて、創作は先生と切り離せない、心そのものだ。
 創作の限界という闇をまだ越えることができなかったから、理生さんは、久住くんとの未来を選べなかった。
 それが、久住くんと離れながら、愛欲のエクリチュールを書いたこと、久住くんの手紙、久住くんとの逢瀬を重ねて、プレイバックもあって、やっと、理生さんは、自分の創作の限界という闇に光を当てたんだと思う。
やっと「君が好きだ、愛してる」と、ちゃんと言えた理生さんなんですよね。
 でも、本物の幸せが近くあって、きっと理生さんは心を少し揺らした。
 幸せに思えた瞬間、友人の城戸くんと一緒に暮らした時間や、久住くんと過ごした、本当に楽しかった時間は、嘘の上にある仮初だった。
 本当の幸せに踏み込んでいいのかという迷い。幸せな人間に、文学はいらない。文学が、いらなくなるのか、というそこはかとない恐れと躊躇い。でも、ちゃんと、理生さんの中には、寂しさがある。それは、理生さんを容赦なく押し潰してきたもの。でも、今なら、その孤独を正視できる、見つめていける、と。幸せを知ったから、満ちた月が欠けても、その孤独をむやみに恐れなくてもいい。創作の限界という闇は、きっともう、先生を呑み込んだりしないだろう。たとえ、久住くんに捨てられたとしても、先生は書き続けていける。また、明日も。
 この「続・春的生活」は、作家、木島理生の再生の終着点だと思った。だから最終回だと。

 言いたいこと、もっとあると思うけど、うまく表せない。
 感じたことの半分も書けなかった。
理生と家族の事、この場所から振り返る蒲生田先生の事、墓参り、理生にとって、ハル君と一緒に暮らすことの意味、理生さんとハルくんが辿り付いた場所。対等な二人ということ。「愛している」という言葉、これからも続く、木島理生の創作。限界の闇は消えたのか。それとも…
 もっと、初読の時色々思った気がするし、全然落とし込めてないけど、今はこれが限界。


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【何でこれを書いたのかという話】 
 さて、ここからは読み流してください。考察でなんでもない、なんでこれを書いたかっていう被害妄想です。
 とまぁ、こんな風に、拗らせて重っくるしいことを胸にためていたんだけれど、ちょっとだけ怖いと思っていることがありまして。
 私には「End of the world」がインディゴの気分の、現代パートのように感じるので……
 インディゴの気分の最終話に、「続・春的生活」がきたらどうしよう、と。インディゴの気分の「春的生活」の答えとして、「続・春的生活」があったらどうしよう……
 蒲生田先生が、久住くんに繋がっていく……
 先生が城戸さんに「またね」、と言った時は、もう、「続・春的生活」の後なんだよな……
 イベントで、ハルくんって言ってた。補遺では「久住くん」だから……
 合わせようと思ったら、辻褄を合わせることもできちゃうな……
 「あなたは特別な人だから」これは補遺の久住くんの言葉ではあるけれども。
 単行本になっていないものをラストに持ってきたりはしないと思うんですけど…三木監督なら何があってもおかしくない……。

 私にとって、「続・春的生活」は本当に本当に大事で。最終回なんだ。最終回、来ちゃうの?そんな…まだ心の準備ができていない。全然、受け止められない。まだ、心の奥にしまって、撫でているだけだった。もしかして、シジミの味噌汁作ってる場合じゃなかった!? 今私は「続」に向き合わなきゃならないんじゃないの、っていう思いが急に込み上げて来て。何もせずにこのまま「続」を迎えたら、死出の旅とも思える地へ赴いちゃうよおおうえええん、と思いました。本音を言うと当てが外れて欲しい。本当に個人の勝手な想いなんですけれど。
 でも、ポルグラエピローグ、補遺、補遺2、からのプレイバック、で、続・春的生活もプレイバック!って可能性だってありますよね。ある。あるよ…大丈夫、大丈夫。はい、大丈夫!!映像化、お願いします!!ドラマはもちろんのこと、映画化でもいいです!!待ってます!!!((業が深いゆえに欲も深い))
 ドラマの先行きに怯えるあまり、情緒不安定になって書いておかねばならない気がして、とりあえず動悸を宥めるために、緊急に吐き出しました。
 
 文章が思考のままで、散漫すぎる上に、推敲しておらず言葉も的確ではないです。考察じゃなくて妄想と思って読んで…。短くする努力もしてない。クッソ長いけど、前のやつよりは短いから許してくれ…
 あ、配信まではドラマペースで、その先は原作で考えてます。この時点で乖離して然るべきのところを強引かつかなりの矛盾。この印象が変わるか見ものだ。 
 あと、書くときに、蒲生田先生視点に重きをおきたかったので、理生、城戸、呼びです。すみません。
 もし補遺ヤリカー軸でしたら、肩ポンしてくれ。杞憂を笑い飛ばさせてくれよな。万が一「続」も混じってたら、酒に付き合ってくれ。アケミちゃん行きて―な。飲めねーけどさ。

 いや〜当時の動揺というか、拗らせ具合に笑ってしまいますね。
 「ポルノグラファーエピローグ」も「補遺其ノ壱、其ノ弍」も「続・春的生活」も「プレイバック」も、全部映像化されるよ、ってかつての私に言ったらリアルにひっくり返ってしばらく起き上がれないと思う。今でもちょっと信じられない…
 結果的には、続・春的生活までむりやり全部やっちゃったらどうしよう!という心配は杞憂に終わりました(笑)。今ならそんなことはないだろう、って確信できますけど、当時はまだ青かったな。
 でも「補遺其ノ壱」の一部がスペシャルとして、ドラマ「インディゴの気分」6話の最後に入りましたね。「インディゴの気分」の本編だけでは終わらない、という勘は当たっていたのかもしれない。
 映像化を経て感じた、「続・春的生活」のことについては、また改めて書けたらいいなと思います。公開中の今はまだ言葉になりませんが。蒲生田先生が久住くんに繋がっていく、という感覚は正しかったんだな、と映画を見て思いました。だから今アップしたくなったのかもしれない。

 


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