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人間関係の断捨離2021




じぶんは毎月、
「おどりば」という媒体で記事をかいている。

”おどりば”は、2年半前
じぶんを含めた3人でつくった場だ。
じぶんたちのために、
ぼくらは”おどりば”をつくった。

つくったと言っても、どちらかというと
感覚やそれに対する意識を共有しただけで、
「一から作り上げた」という感覚とはすこし違うかもしれない。
もしかしたらだいぶ違うかもしれない。


おどりばの記事は、毎日更新される。
毎日違う住人が、
自分の部屋と同じ数字の日が来たとき
記事を更新するのだ。
じぶんの住んでいる部屋は、23号室。
23という数字は勝手にじぶんがラッキーナンバーだとおもっている、なんとなく縁のある数字だからそう決めた。
前の2ヶ月、つまり2回分
じぶんは記事を更新できなかった。


おどりばには決まりがない。
記事の内容も、
過ごし方も、
自由。
だから何をかいたっていいし、
slackのメッセージを返信しなくたっていい。



ただひとつ。
決まっていることは
『自分のためにかくこと』
それだけだ。



今回のこの記事と、次の記事は
記事がかけなかった2回分、
おどりばでかこうとおもっていた記事だ。
文章にするまでが23日に間に合わなかった。
そうなったとき次の月に同じ内容で記事がかけるかというとそうではなくて、
そのときに考えていたことはもうそこにはない。
もっとぐっと進んだ先に来たので、
それを今月、つまり今日の記事にかくにはためらわれた。
だから今ここにいるんだ。

いっくら自由だからといって、
多少は見られることを意識するので、
しないようにしているとはいえど
前のnoteの記事とはだいぶ体裁が違いそうだ。
なんでかというと今pcでかいているから。
これはおどりばモード、
でも今までのnote同様
普段のじぶんに近く、よりおもったまま浮かんだままを文字にしていく記事にしようとおもう。
どうなるのかは結局、
かき終わってみなければ分からないのだけど。



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誰も予想していなかった事態が起きて、
突然たくさんの人にたくさんの時間ができた。
「時間」というのは、存在しているのかどうか
なかなかあやしいはっきりしないものなので、
”時間ができた”と言うのは結構変な言いかたなのかもしれないけれど、
突然
今までずっとたりないたりない言ってきた日々の隙間が、
できた。
しかも強烈に。


それぞれが
というのは、
ものすごい範囲のそれぞれが
世界中の人たちそれぞれが
「今の自分」と向き合った。

今自分は何がやりたいのか
今まで自分は何をやってきたのか
今の自分の居場所は?
これからの自分の行き先はどこなのか?
その為に今自分ができることななんなのか

おそらく、
それぞれが今までになくていねいに
考え始めたのではないかとおもう。




「時間」はどうだっただろうか。


みなさんは時間をどう使ってきただろうか。



きっとたくさんの人が
気づいたのではないかとおもう。
気づいていて欲しい、という
じぶんの欲なのかもしれない。



ぼくらは他人に時間を使いすぎていた、と。



なんのためにやっているのか分からないような
無駄に人の多い会議はできなくなって、
好きでもない先輩の聞きたくもない愚痴を
ひたすら聞く飲み会もなくなった。
今まで断れなかったそんなに気の合わない友達からの誘いは
変な空気になることなく”公式”に断れるようになったし、
家でもできる仕事は無意味に出勤する必要も無くなった。



ぼくらは選べるようになった。

「自分は本当にこの人に時間を使うのか、使わないのか」


本当は、
今までだって選べたはずだった。
自分にとって今、本当に大切なのが
自分自身の時間なのか、それともそのヒトの時間なのか。


今までみんな犠牲にしすぎていたのではないかな、
と個人的にはすごく感じた。
自分ではなく他人を優先することがあまりにも多かったのではないかな、と。


同時に


今まで自分の「時間」と向き合うことから逃げてきた人が
あまりにも多かったことを改めて確信した。

他人のことを考える時間
会社のことを考える時間
家族のことを考える時間

今までのそれは、
本当にその人のためだったのか?
「出世したい」
「嫌われたくない」
「よく思われたい」
「できるだけうまく収めておきたい」
そんなふうに考えていたのは、本当にその人のためだったのか?


今まで無駄だったのは、自分以外の人のことを考えていた時間ではない。
「自分の時間と向き合わずに楽をしてきた時間」だとおもう。
そして、
「その時間を選択した自分に必死に言い訳する時間」だとおもう。



「時間がないから」
ではもう片付けられない。
「忙しいから」
ではもう通用しない。
「だってこう言われたから」
「前はこう言ってたから」
だからやったのに、って
まだ言うのだろうか。


今までうまく時間がなかったり、
自分が大切にしたいものを自分が大切にしたいものを
大切にできないことがあったかも知れないけれど
それが状況や環境のせいではなかったことを、
いい加減に認めなければならない。



全ては自分の選択の上にあったことだ。
まさかそこに言い訳なんてできまい。
この状況が訪れて、
自分の現状と
自分の時間と向き合って、
結果
自分が今まで選択してきたことの大きな間違いに
または自分で選択してきたようでようで人まかせにしてきたという事実に気づいたら、


ここからは自分で選択していかなくてはならない。
自分で選択して、その選択をしたことに
誇りと責任と自覚を持って、
進んでいかなくてはならない。


大変で重たいようにおもえるだろうか。
それは違う、と言いたいところだけれど、
それはそうだ。
責任は当たり前だけれど自分にかかるし、
言い訳できない分選択することは大変になるかも知れない。


だけど


それでも、
自分で選んでほしい。
自分で選んで、
進んでほしい。
大変そうに見えても、
きっと納得できるはずだ。
今までとは明らかに違う選択ができるとおもう。





隙間があいて、はっきりした、
自分が会いたい人、会うことでプラスになる人、
と、そうでない人。
自分たちは一人では何もできない。
”何かをしようとするのならば”だけれど、
前に進もうとおもうのならば
無視できない感覚なのだとおもう。





ぼくらは他人に時間を使いすぎた。
ぼくらがぼくらの時間と向き合わなかったから、
他人にまかせて楽をしてきたんだ。
ここから先、それを無視するわけにはいかない。
もう同じようには甘えられない。
それに気づいたら、
改めてやるしかないんだ。

つらい別れになっても、
それがじぶんと向き合った結果なら。

前を向いていこう。
ぼくらは大丈夫。
誰も答えを知らない道を歩いている。
改めて実感したのなら、やるしかないんだ。



やるぞ。
今こそ。



やっぱり止まってはいられない。











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