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僕が人間関係を投資先とみなさないと精神的にキツい理由


先日、学生時代の元友人と揉めた際に「人間関係は投資先」という趣旨のツイートをしたところ、眉を顰めるというか、まあ、否定的な反応をいくつか頂いた。

発言の弁解をするわけではないけども、他人の反応を掻きたてるアイデアとは良い意味でも悪い意味でも価値があるのでこの考え方の理屈となぜそれを書く必要があったのかを記事にしたい。

もちろん、有料記事には価値が無いことを書くというコンセプトを以前から固めているので、価値がある部分、つまり、この考えかたの正しさについては無料で読める範囲内に、そうではない部分、換言すれば僕個人の性格というか内面に関わることは有料の枠内で書くので、ご支援いただける方はその赤裸々な「事情」も楽しんでもらえると幸いです。

さて。

人間関係の利害に関わる面を強調した価値観は僕はなにも不思議なことはないと考える。

というのも、僕たちが自由にできる時間も体力も意志力もすべて有限であり資源であるので、限りあるそれらを使って自分の利益を最大化しようと思うのは何もおかしなところはないはずだ。

たとえば、僕自身であればひとより抑えているとはいえ糊口を凌ぐための労働があり、家事があり、パートナーと過ごすことが必須なものとしてあり、その上で文章コンテンツを作り、その準備や勉強をすることが日々の生活のなかで求められている――厳密な計算ではないがそれらを差し引いて残るのが僕の交友関係に割ける諸々のリソースだ。

当然、僕にとって人間は平等ではないため交友関係にも優先順位を付けざるをえない。

有料記事の購入や誕生日プレゼントというかたちで僕にお金を掛けてくれた方や、僕のブログに有償で寄稿されている方、僕が辛いときに(最近だとブンゲイファイトクラブの炎上事件)優しく声を掛けてくれたり矢面に立ってくださった方、僕のコンテンツにこまめにリアクションされて記事拡散に手を貸してもらっている方などは全て僕の大事な友人という扱いだ――したがって、僕は普通のひとよりは義理堅い人間だと自己評価をもってはいる。

また、共通の趣味をお持ちだったり、情報発信などで僕が勉強させてもらっている方もただの友人知人よりはずっと優先順位が高い。

要するに前者は恩義がある方、後者は学びがある方で、大抵の場合両者は重なっているのだけども、いずれも今後の相互扶助の関係にさらなる発展性が見込めるのでそこにリソースを投じることは十分価値があると判断させてもらっている。

反対に、たとえ付き合い自体は長かったとしても、敵対的な発言をしてきたり距離を置こうとしてきたなど今後の相互扶助の関係に発展性が見込めない場合は、僕から関係を断つことはしないとはいえ、相手がいくら対話だ何だと望もうとも(?)僕が費やせる資源は当然ながら微々たるものに過ぎなくなる。

そのため、中高時代からの地元の仲間とか学生時代のサークルの同期みたいな、付き合いの長さだけが紐帯のようなウェットな友人関係を残念ながら僕はもてずにきてしまっている。

まあ、それはそれで、僕自身のひと付き合いの悪さというか、人格的な癖というか気難しさのせいで友人知人が離れていきやすいという致命的な問題もあるにはあるのだけど。

なんにせよ、僕は相互扶助の関係を発展させていけるひとのみを信用し、信頼し、限りあるリソースを賭けていきたいのであって、他人の善意にタダ乗りするようなひとに不必要に構っていられるほど暇も余裕もないし、その判断に個人的な好き嫌いという感情は関わっていないように思う。

それが道徳的にどうとか、社会人としてどうとかいわれても正直困る。

僕は僕なりに生きることに必死で、慈善事業をしているわけではないのだから。


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