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映画「くじらびと」感想

 一言で、インドネシア、ラマレラ村の鯨漁を通して、命を頂くことへの感謝、命をかけた死闘、グローバリズムの中で未来に残したい文化を先祖から子孫へ継承していくことの大切さを伝えてくれる作品です。

※ここからはネタバレなので、未視聴の方は閲覧注意です。
 日本から南に約5,000km離れた赤道直下、インドネシア東部ニューギニア島近郊にあるレンバタ島ラマレラ村、周囲を海と熱帯雨林に囲まれた人口1,500人ほどのこの村では、現代も手作りの小型船と銛一本でマッコウクジラ(以下「鯨」) を突く、シンプルながら勇壮な鯨漁が行われています。この鯨漁は400年の歴史を誇り、江戸時代の日本の鯨漁を彷彿とさせます。※この漁に参加する漁師達を現地語では「ラマファ」と呼んでいます。実際の鯨漁は壮絶で、鯨との衝突や船の転覆によって、時には死者が出ることもあります。しかし、この鯨は村人の生活を支える大きな糧となっています。
 本作を制作した石川梵監督は、30年に渡ってラマレラの民と信頼関係を築き、2017-2019年までの3年間に渡り、現地の人々に密着してこの映画を完成させました。グローバリズムと反捕鯨の圧力の中、消滅の危機にある貴重な鯨文化を詳細に描き、地域文化を守ることの大事さと、大自然の中で共に生きる、アジア的共生の素晴らしさを伝えます。

1. 命を頂くことへの感謝

 まず、本作で感じたことは、「命を頂くことへの感謝」です。私達は生きていくために、毎日多くの生物を「犠牲」にしています。例えば私達は彼らの血肉をお店で買って調理し、食事をすることで生きています。そこに至るまでには対象となる家畜や魚介類を蓄養・屠殺・加工する作業工程があります。でも、実はその食材の調達方法や流通経路については、私達が知っていることは極めて少ないです。
 本作では、鯨漁によって、彼らが狩った鯨が加工・調理されて村人の食卓に並ぶまで、丁寧に時系列を追って描かれていました。ラマファ達に銛を打たれて大量出血し、瀕死の状態になった鯨が声で仲間を呼び、最期まで抵抗する姿は克明に描かれていました。その姿は時に悲しく、残酷な姿に捉えられるかもしれません。それでも、生きるために命懸けの鯨漁に挑む彼らの姿は崇高で、命を奪うとはどういうことか、そしてその恩恵を受けることはどういうことかといった人間の本質的な命題を強く訴えていました。改めて、農業や漁業など、第一次産業の偉大さを身に沁みて感じました。

 スクリーンから伝わる鯨漁は終始ダイナミックなもので、まるで近くに爆弾が落ちたような衝撃の大きさにただただ圧倒されました。しかし、鯨に対しては、不思議と「可哀想」とは思わなかったです。寧ろ、ラマレラの民に対して尊敬の念を抱きました。彼らは生きるために鯨を食べるけれども、同時に鯨に尊敬の念を抱き、思い遣りを持って共生する姿勢には感銘を受けました。私が心に残ったのは、以下の言葉です。

「鯨は賢い『魚』だ。鯨は新しい船を見分ける。死んで目を瞑る『魚』は鯨だけだ。」
「銛を打つときは『鯨の目』は見てはいけない、仕留められなくなるから。」

 ラマレラ村の第一印象は、ディズニー映画「モアナと伝説の海」みたいで、島は海に面して、ジャングルに囲まれ、村には豚・鶏・犬など、動物が沢山います。村の男性は船で漁に出て、村の女性は彼らの帰りを待ち、その他の家事や育児を担います。村同士の交流では、海の幸と山の幸を村ごとに物々交換していました。こういう場面は、日本むかし話の世界のようで、ノスタルジーを観じました。
 また、村の宗教観はキリスト教(カトリック)と精霊信仰の融合で、前者は、教会のミサに通い、祈りを捧げます。「安息日」の日曜日は、漁は休みです。村人の名前もキリスト教に因んだ名前の方が多いです。そして、後者は死者を弔うために小舟に蝋燭に点火し、海へ流しますが、これは日本の文化のお盆や灯籠流しとの類似性を感じました。
 そして、女性は普段は船には乗れませんが、網や縄を作る作業には共に参加します。ここには、小さな「男女参画社会」が成立していると思いました。(尚、女性が捕鯨船に乗れるのは船の進水式のときだけで、男児も進水式の日は銛打ちの練習ができます。) 

 本作の鯨漁には、イスラム教の「犠牲祭」との類似性を感じます。インドネシアは多宗教国家なので、イスラム圏では家畜を捌く犠牲祭が、カトリック圏では鯨漁が行われており、どちらも命を頂くことへのアプローチは違えど、食や命に対し、感謝する心は普遍的なものかもしれません。

 私は大学では海洋学を専攻したものの、捕鯨を生で観たことはないです。日本では鯨は「勇魚」と呼ばれ、葛飾北斎や歌川国芳など、有名な浮世絵師も多くの作品を残しています。また、海岸近くには鯨神社や鯨塚といった鯨漁で肉となった鯨を祀り、神様として信仰する宗教観もあります。※現に大学近くでも鯨塚はありました。

 こういった「命を頂く」ことや、「動物と人間の関わり」をシビアに、でも重くなり過ぎず描き切ることで、物事に対する答えや価値観は一つではないことを気づかせてくれる作品だと思います。この辺は、野田サトル氏の「ゴールデンカムイ」、荒川弘氏の漫画「銀の匙」や「百姓貴族」を読んだ方なら、本作のメッセージに少し共感するかもしれません。

2. 命をかけた死闘、「生と死は隣り合わせ」

 本作のレイティングは「PG-12」です。前述した通り、とにかくスクリーンから伝わってくる轟音や流血が凄まじく、言葉を失いました。まず、これらが苦手な方は無理して観る必要はありません。また、前述では、「不思議と鯨が『可哀想』とは思わなかった」と書きましたが、これは飽くまで私個人の意見であって、仮に可哀想と感じる方がいらっしゃっても、決しておかしなことではないのです。尚、本作は、教育作品として子供達が観るには、映像的にも倫理的にも「適切な助言と指導」が必要な、ある意味「取り扱い注意」なテーマであると確信しています。

 ラマレラ村では、鯨漁の時期は毎年5-8月までの4カ月間で、日の出から午後3時ごろまでには浜に戻ります。主な獲物はマンタ・ジンベエザメ・オキゴンドウ・シャチ・マッコウクジラです。特にマッコウクジラは一頭獲れれば2カ月間は村人を養っていけるほどの食料・燃料資源になります。また、マンタは鯨よりもコンスタントに獲れるため、此方も村を支える重要な資源となります。
 そのため、漁に使われる船は大きく分けて2種類あります。主にマンタを獲る小型船と、鯨まで獲れる大型の鯨船(以下「テナ」)です。このテナは船首の左右に「眼」が描かれており、形も鯨そっくりに造られています。アタモラ(船大工)のイグナシウスは、テナについては以下のように語っています。
「テナ(船)には魂がある、だから悪い行いをすると、テナは見ている。そして時には災いを引きおこす」と。これには、日本でいう「言霊」に近いものを感じました。テナは15年に一度新造しますが、「魂を引き継ぐために」、古い船の一部を残して、新たに造り替えます。造船には、一切設計図や測量機、釘は使用せず、口伝のみでアタモラからアタモラへ引き継がれます。そして、帆(ラジャ)は椰子の葉で編みます。

 アタモラ(船大工)のイグナシウスには、デモ(兄)とベンジャミン(弟)という二人の息子がいました。しかし、ある日突然、ベンジャミンは死を迎えます。(原因は銛突きでマンタに引き込まれて溺死、遺体は今でも発見されていない。) 彼は元々家族との折り合いが悪く、事故の前日に夫婦喧嘩をしていました。伝承では、「漁の時期の諍いは不吉の元になる」という言葉がありますが、運悪くそれが具現化してしまったのです。よく、「自然は時に牙を剥き、そこでは人間は到底太刀打ちできない」と言いますが、これはその怖さを思い知ったエピソードでした。遺族や村人の悲しみはとても大きく、観客である私達まで辛くなりました。

 そして事故から1年後、本作のラストでデモが鯨に遭遇し、銛を打ち込んだ時は思わず息を呑みました。残念ながら銛は外れ、鯨にトドメはさすことはできませんでした。しかし、彼は、たとえ弟が戻って来なくても、鯨やマンタに憎しみを向けてはおらず、寧ろ弟の死を乗り越え、この海と共に生きる、といった決意に変えた、彼の生き様や信念に心を打たれました。

 ラマファ達は、船の振動や潮流、目視のみで鯨がいる場所を当てていました。船を動かすのは小さな船外機のみで、音波で鯨の居場所を探る魚群探知機や、鯨の鳴き声を聴く水中マイクを一切使わずに、漁に挑む姿はとてもワイルドでした。人間の「勘の鋭さや長年の経験」は、文明機器に引けを取らないと感じました。※ただ、個人的には、誰もライフジャケットを着用していないのが気になりました。ライフジャケットがあれば、海上での事故は防げるものが多いはずなのに。勿論、ライフジャケットを着ていたら、銛を持って潜ることは出来ないので、彼らが着ることはないのかもしれませんが。

3. グローバリズムの中で未来に残したい文化を先祖から子孫へ継承していくことの大切さ

 本作では、ラマファに憧れる少年エーメンとその家族も登場します。彼はとても明るい性格で愛嬌抜群だったので、本作の重い雰囲気を和らげてくれました。
 エーメンの両親はバリで出会っていますが、現在はラマレラ村に住んでいます。「バリでは稼げたけど、お金に追われる生活は余裕がない。お金が沢山なくても、自分らしく生きられる環境が大事だ」という言葉が心に残りました。この言葉からは、私達が「忘れてしまったもの、置いてきたもの」を思い出させてくれる気がしました。
 エーメンは、初めてラマファの仕事を経験し、船酔いに苦しみながらも、必死で父親や先輩から仕事を教わり、ものにしていこうと奮闘していました。彼はラマレラ村の「未来の象徴」です。そんな彼に対し、両親は夢を反対こそしませんが、進学するよう諭します。

 ラマレラ村はインフラはあまり整っていませんが、グローバリズムの波はどんどん到来しています。実際、若い世代がスマホを使い、Wi-Fiが通る場所も設置され、衛星テレビを観る家庭もあります。子供達は進学のために村を出て町へ行き、そこで勉学や人間関係を学びます。教育とは、自分が生きていく道は一つではないことを知る手段です。
 一方で、ラマファの高齢化は確実に進んでおり、いつしか鯨文化が廃れてしまう可能性も秘めています。そのため、イグナシウスのように、伝統を守り、若い世代に引き継ごうとする人々もいますが、そのスピードは速くはないです。※現に、造船時に歌う「網造りの歌」は、若い世代は歌えません。文化の多様性は人間社会の持続に繋がりますが、もしグローバリズムによってそういうものが失われ、「単一化」した社会になってしまったら、とても恐ろしいと感じました。

 村人達は、「漁獲よりも調和が大切」をモットーにしており、船同士のコミュニケーションや、鯨肉の分け前で揉めることはありません。鯨漁で調和が崩れてしまうと生死に関わります。また鯨肉を貰う部位は決まっており、ラマファのいる家庭から生活が苦しい家庭まで、隔てることなく分配され、肉以外も無駄なく利用します。鯨肉は海水で洗って殺菌し、主に火を通して煮込み、余剰分は干し肉にして保存食にします。また、脳油は貴重な燃料になり、灯りや船舶燃料に利用します。最終的に骨だけになったら、海へ返します。
 個人的には、鯨が捌かれてブロック状になった肉を見たら、「美味しそう」だと感じました。鯨漁には大きな衝撃を受けて言葉を失っていたのに、鯨肉を見たら食べたくなるなんて、人間欲には勝てないなぁと実感します。また、鯨骨は深海で鯨骨生物群集を形成し、ホネクイハナムシのようなスカベンジャーに食べられます。この事をラマレラ村の人々が知っているかはわかりませんが、正に、食物網に組み込まれた無駄のないシステムだと感心しました。

 かつて、この村にも反捕鯨団体や動物愛護団体の圧力が強くなった時期がありました。彼らは無理矢理鯨漁を辞めさせるのではなく、代わりに鯨ウォッチングを商売するように提案したり、刺し網を寄付したり、あの手この手で辞めさせようとしました。網漁は非常に効率は良いですが、深夜に行われるため、漁師は疲れて朝は鯨を獲れなくなります。これはとても巧妙な作戦でした。
 しかし、この村では鯨漁の時期は刺し網を禁じ、鯨を獲るのに弊害が出ないように工夫しました。また、反捕鯨に関する人間を一切村に入れないといった対策を施しました。それ以来、目に見える形での反捕鯨団体の活動は無くなったようです。
 「文化」は難しいもので、一方から見れば「残酷」に見えるものでも、他方から見れば「生きるために必要」なことで、それを「一方的に辞めさせる」という行為はエゴなのかもしれないと感じます。結局、文化や倫理の線引きは極めて曖昧なものなんでしょう。だからこそ、広い視野を持ち、様々な立場の人の意見に耳を傾けることが大切です。私は、中々自分と異なる意見を「受容」することは苦手だと認知しています。それでも、自分の意見だけに凝り固まらず、「正反対の意見がある」ことを知ることは継続したいです。

4. 石川梵監督の舞台挨拶でのお話

 鑑賞日は丁度上映館公開初日でした。石川梵監督の舞台挨拶があり、貴重制作秘話を伺いました。
 まず、本作では、監督が長年に渡って村人と交流したことが強く伝わってきました。そにため、そこに住む人の息遣いまでスクリーン越しに伝わってきました。
 次に、本作の撮影手法はとても画期的で、鯨漁のリアルをしっかりと捉えていました。監督はドローンによる空撮やGoProでの水中撮影を駆使し、また監督自身もテナに乗り込んで、鯨との激闘を間近で撮影しています。これらの撮影手法は、人間の立場だけでなく、狩られる鯨の視点からも撮影されていたので、本当に自分たちも鯨漁に参加しているような臨場感がありました。
 そして、本作は、環境・教育ドキュメンタリーにありがちな、「鯨は可愛いし、賢いから、食べるなんて悪」といった「押し付けがましい」内容ではなかったのが良かったです。寧ろ、監督は「人間も鯨も同じ命」、つまり「命を奪うことは、逆に奪われることもある。その覚悟はあるか」というラマファ達の信念をハッキリと伝えてくださったので、最後まで不快な気持ちになることなく、鑑賞できました。

 実は監督はベンジャミンの死について、その詳細である生前の彼と家族の最期のやり取りを収録していましたが、本作品を公開するにあたり、「詳細を映像に記録として残し、他人の目に触れるようなことになったら、彼の遺族や村人はとても傷つくだろう」と判断されて、最終的にはカットしたそうです。確かに、ドキュメンタリー映画として、リアリティ高く正確に伝えることは大事ですが、それによって傷つく人間がいてはいけない、誤解を招く表現は避ける必要はあると思います。こういうところから、監督の取り扱うテーマや出来事に対する強い配慮を感じました。

 EDの森麻季さんのアヴェ・マリアが凄く良かったです。ラマレラ村の宗教観(カトリック)に寄り添っており、またベンジャミンや鯨達への鎮魂の気持ちがよく伝わってきました。また、挿入歌の吉田大致さん・*はなおと*さんの音楽も、良かったです。視覚では激しい鯨漁の様子が伝わってきますが、その反面聴覚からは心地良い音楽が流れてきて、「一見すれば合わない演出」に感じます。しかし、敢えてこういうBGMにすることで、あまり重くなく観れるようにする工夫を感じました。

 最後に、石川梵監督にはサインや写真撮影に快く応じてくださったこと、大変感謝しております。私はインドネシアには、今まで2度来訪していますが、(ジャカルタとバリ) 東の方には行ったことがないので、生涯に一度は行ってみたくなりました。作中で観た青い海を自分の目で見てみたいです。

出典:
「くじらびと」パンフレット

勇魚(クジラ)獲りは、古来より行なわれた伝統漁業であった
http://www.photo-make.jp/hm_2/kuzira.html

浮世絵のアダチ版画 葛飾北斎 千絵の海 五島鯨突
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai093/

浮世絵のアダチ版画 歌川国芳 宮本武蔵の鯨退治
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi023/

利田神社・鯨塚

マッコウクジラ画像(ヘッダー)
https://jp.depositphotos.com/stock-photos/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9.html

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