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日本人って、何故、『爺さん・婆さん』になりがたる!?

 先日、車の窓を拭こうとしていたら、近所の七十手前の人がご挨拶してくれた。その会話の中で、ふと気づいたのが「もう、婆さんになってしまって!」と自虐的な言葉が多く、何度も聞かされたような気がする。とても耳障りな言葉なので聞きたくはないが、何故に、そんなに『婆さん』になりたがるのかが分からない。

 ある先輩と久しぶりに会った時でも、「孫もできて、もう爺さんになった!」と何度も言い放つ。家庭の中では、爺さん、子供、孫の関係はわかるけれども、それをわざわざ第三者に自虐的に言う必要はないはずだ。

 知り合いの外国人で、自虐的に『爺さん・婆さん』と言う人は誰一人いない。日本では『人生百年』と言いながらも、そこで自虐的な言葉を発しても、何の意味もない。『爺さん・婆さん』という言葉の印象としては、余り善いイメージがないので、これまた聞きたくもない。

 例えば、『姥捨山』という言葉である。昔の話だが、人間が今で言う後期高齢者になると、仕事もできず隠居する。昔は食べるものに困る家が多かったために、生産性に欠ける『爺さん・婆さん』を『穀潰し』として見做し、子供が親を山に捨てたと言う史実(国内外)も沢山ある。そして、鳥葬、風葬などの悍ましき風習もあったと聞き及んでいる。

 「こら、ジジイ!」とぞんざいに使う場合もある。同じく「おい、ババア!」と。これらは、水戸黄門に出てくる「おい、田舎ジジイの分際で!」と同様に差別的に見下した言葉だが、このような言葉を平気で言う輩は、育ちも躾も悪いまま大人になった可哀想な人間であると思うようにしている。

 高齢者の言葉を聞いていても、自らを高齢者として甘受している『爺様』は「わしゃ」、「わし」を連発する。「おれ」と言う『婆様』もいる。某ホテルレストランで毎週ランチを楽しむ高齢者三人組がいるが、これこそ、典型的な『爺さん・婆さん』である。

 横のカウンターに聞こえてくる言葉が、すこぶる汚い。方言は別に問題はないが、周囲への配慮はなく、大声で年寄り専門用語を発しているのである。そうなると、どうしても『爺さん・婆さん』が横にいると思わざるを得なくなってしまう。

 そこで、美しい日本語を語っているのであれば、どんなに高齢者であろうとも、『爺さん・婆さん』と見ることはない。更に、人の噂やら金の話やらを大声でワイワイ騒がれると、どんどん三人組のイメージは悪くなる。しかし、本人たちは気づく様子はない。

 これが、三人組のローカル・スタンダードなのである。しかし、そこは公然の場である訳で、周囲では静かにランチを楽しむカップルや、友達同士でスイーツを楽しんでいる若者もいる。高齢者三人組がこんな具合だから、他人からも『爺さん・婆さん』とぞんざいに扱われてしまう。

 時折、筆者は『民度』について語ることがある。『民度』は高い方が断然良いけれども、そのスタンダードは千差万別。『民度』を無視する人は、第三者にどれほど悪い印象を与えているかなど、一切頭にはない。よって、公然の場で醜態を曝け出してでも、何食わぬ顔している訳だ。

 以前、日本人高齢者のファッション感覚について記事を書いたけれども、お洒落な服を着た高齢の『爺様・婆様』は流石に上品で、日本語も優しく美しい。一つ一つの所作も幼い頃から躾けられたのだろうか、見ていて素敵な歳の重ね方だと感心してしまう。

 このように善い高齢者像と、既述の三人組のような悍ましい高齢者像とは、ナイアガラの滝以上の落差がある。

 せめて、自らが歳を重ねて、高齢者、後期高齢者になったとしても、自らを第三者に対して「わしゃ、爺さんだけん!」、「おれは、婆さんばい!」など、わざわざ口に出す必要はなかろうと。

 筆者の理想は『美しく老いる』こと。それを実現するには、日頃から、『爺さん・婆さん』の領域の中であっても、青春時代の自分自身を忘れぬことが一番だと考えている。それに、どんなに歳を重ねたとしても、横には最愛の人が寄り添っていることが最適最高の条件ではなかろうか。

 医学的には、高齢になればなるほど前頭葉が萎縮して、怒りっぽくなったり、忘れっぽかったり、認知が入ったりするのかも知れないが、これまた、日頃から生涯の趣味を持ち、それに傾注していると、老いる暇などない。

 欲を言えば、いくら『爺様・婆様』になったとしても、「僕は」、「私は」と滑舌良く話し掛けれるような後期高齢者になりたいものである。そうなれば、子供も孫たちも、『ジジイ』、『ババア』とは荒々しく呼べなくなってしまう。

 呼称としては、『じいちゃん・ばあちゃん』、『おじいさん・おばあさん』よりも、英語の『グランパ・グランマ』の方がクールな気がしてならない。昔から伝わる『ジジイ・ババア』は下手をすると差別的な嫌味な言葉になるので、日本語自体を変更願えれば宜しかろうと。よっぽど、古典的呼称である「翁(おきな)』、『嫗(おうな)』の響きの方が心地良い。

 また、自宅近くで高齢者の方と車の話をすることがあるが、勿論、知っていれば氏を呼ぶけれども、それ以外は『ご主人』、『奥様』と呼ぶようにしている。『お宅』とは絶対に呼ばぬよう心掛けている。

 何はともあれ、自らの老いを甘受して『爺さん・婆さん』になりたい人、そう呼ばれて嬉しい人は決して留めはしない。しかし、筆者は悍ましい後期高齢者と揶揄されぬように、老後は日々『老化』と闘って行きたい。言葉を変えれば『アンチエージング』となるが、中でも重要なものは、『心のアンチエージング』ではなかろうかと。

生きている証は、美味しいものを美味しく食べることである。
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