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人に迷惑を掛けず、一回きりの人生を精一杯楽しむ。それが、懸命な生き方、過ごし方。下らん事で尖り競っても、ミーニングレス!

 周囲を見てみよう。ワイワイ騒いで、ちょっと頭が吹っ飛んだ、子供のような大人はいないか!?人に迷惑を掛けている自分自身が見えない人は、社会人であっても、聞き分けのない子供のような恥ずかしい大人になっている。何としても目立つことに命を掛け、自分自身に酔いしれる、ノータリン(死語)である。

 他人の挙動を嫌に感じる自分がいたら、何故嫌なんだろうと考えてみる。好みじゃないから。耳障りだから。鳥肌が立つから。煩いから。目の前でゴミを捨てたから。声がデカ過ぎるから。ウザいから。そんな不快感をグッと抑え、自分自身をコントロールしてその場を静かに立ち去るか、耳栓して無視するのが一端の大人と言える。

 よって、少しでも自制できる人の方が、日頃から周囲に迷惑を掛ける確率は少ない。ところが、自分以外の他人の迷惑行為にキレまくり、更に騒ぎを起こす人は、今、目の前で騒いでいる人間と同等以下にて、自己コントロールできないタイプである。自分の失態は高々と棚に上げるが、他人の愚行は許さず激昂し、攻撃する。

 ここまでくると、「馬鹿に付ける薬はない」を通り越し、「馬鹿は死んでも治らない」となってしまう。

 昔は、リーゼントの尖り具合、反り具合を比べたり、ポマードの艶を比べたり、学ランのズボンの裾幅を比べたり、セーラー服のスカート丈を比べたりと。いやいや、そんなところで尖り具合を競っても意味もなく、価値もない。「弊衣破帽」のバンカラ精神とは異質な尖り具合だ。

 何故、それが人生の最重要課題であり、そこに行き着くのか理解に苦しむ。下らんことで一番になりたいのか。リーゼントの長さや反り具合を競っても、雨が降れば萎えてしまう。トイレのドアノブを握る前に、尖った髪の毛がドアに当たる。幅広ズボンや長過ぎるスカート丈であれば、自転車に乗って裾が絡まり、その辺でこけている。まさしく、ドリフや吉本新喜劇の世界である。

 突っ張って尖るのが、そんなに素晴らしいことなのか。誰に対して、突っ張りたいのか。どんぐりの背比べが気に食わないのは分かるが、社会全体に対して突っ張ったとしても、周囲の人たちは誰も相手にしちゃいない。猿芝居の猿が徘徊しているのかと、白い目で苦笑されているだけの話である。

 そんなに突っ張りたいのならば、相撲部屋でその突っ張りの威力を試してみればいい。多分に、両手首を骨折して大怪我するだけの話である。ストレスの吐きどころを完全に間違っている。もっと、価値あるところでエネルギーを発散し、集中すれば良いものを。

 人生は長いようで短い。先々、人として幸せな家庭を持ちたいのであれば、ここで一度立ち止まり、自分の背中を見ることだ。絶滅危惧種猿のハゲウアカリのように赤面するほど、恥ずかしさの連続に気づくことになる。しかし、気づかねば完璧ノータリンだ。従って、そんな恥ずかしさの境界線を逸脱した親の背中を見ていると、子供も孫も同じことを繰り返す。

 このように無意味なことに人生を掛けるという思いや行動は、どこから湧いてくるのか。数十年後に、「あれは、若気の至り!」と言い訳しても洒落にもならない。それだけ体を張って自分を認めさせたいのなら、もっと世のため人のためになるものを選択肢とすべきだ。

 畢竟、人に迷惑を掛けず、一回きりの人生を精一杯楽しむ。それが、懸命な生き方、過ごし方。脳みそとその行動は、「積善之余慶」のベクトルにて使うものである。

日本猿
穏やかに過ごす猿の家族
マンドリル
少々不機嫌な様子

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