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忘れられた男

その男は静かに息を引き取った。まるで娘の到着を待っていたかのようだった。独力で立ち上がれなくなった時期から、娘以外に関する記憶がほとんど朧げであったからかもしれない。彼女の呼びかけに目を見開いた後、ほどなくして旅立った。

娘は、ひとしきりの涙を流したのち、あらかじめ決めていた手筈通りに、実にテキパキと手続きを行った。その男の最期を見届けた医師は「今日はもう一人亡くなりそうだ。」と呟きながら慌ただしく部屋を出ていった。そして、入れ替わるように葬儀屋がやってきた。そんな具合に、手続きは極めて淡々と効率よく進んでいった。

娘は、頑なに拒んでいた。自らの家族がその男を看取ることを。生身の死を目撃させることを。その死を同時に分かち合うことを。そのように拒むことで、自らがその男の娘であると証明するかのように。しかるべき結果として、家族はその男の死を、極めて2次元的な情報として知ることになった。

死化粧は、粛々としめやかに行われた。時折、事務的な確認を経ながら整えられていくその表情は、若い時分は男前であったという評判を取り戻すにふさわしいものであった。やがて、娘は手際よくその男が葬儀屋に運ばれていくのを見届けたのち、遺品をまとめることにした。

葬儀は2日後になった。直葬には、娘と2人の孫が参加することになった。最愛の妻を亡くしてから、その男について語る者は日に日に減っていった。きっとそれは旅立ちへの緩やかな助走だったのだろう。葬儀が終われば、その男はまた最愛の妻の隣で眠ることができる。それだけが彼の望みだった。

娘は、洋服の一番下に潜んでいたその男の手紙を見つけた。日付は4ヶ月ほど前になっていた。もはや判別の難しい弱々しい字で、それでも娘への感謝が短い言葉で綴られていた。

「本当にありがとう、本当にありがとう。」

忘れられた男に乾杯。

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