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身体が野蛮。

zoomで、整体の先生の身体講座を受け始めて半年。
整体に興味があるというよりは、身体、肉体に興味がある。
そして、昨日はこの言葉を聞いた。
「身体が野蛮。」
わたしは、すごくいいなと思ったんです。
きっと、野生的ってことで、強いってことじゃないかなって。
とあるタイプのひとの身体は、野蛮。
やはり意味としては、褒め言葉だそうです。
私は、野蛮なタイプな癖にひよわなフリを始めたのは、中二のころでした。
それまで
バカで野蛮なアタイは、
理科の実験で試験管を割りまくるし
授業中ふざけて椅子ごとひっくり返るし
給食に出たオムレツがなんか嫌で食べなかったら
私ともうひとりだけ、クラスで食中毒にならなかった。
動物と話しをするのは普通のことで
正夢をしょっちゅう見ていた。

感情の処理が苦手で、好ききらいがはっきりしていて、わりと敵も作った。

小4でケンカして指を骨折したとき、
割り箸をあててぐるぐるテープをまいて、自分で治した。

音が文字が色に変換される、共感覚でもあった。

野蛮で野生的。 

中2になると、なんとなく周りも大人に、というか大人しくなった。
絵に描いたような非行というのが流行っていったのは全然つまらなかった。
共感覚を持つ友人たちも次々と、その感覚を閉じていった。

わたしは野生と野蛮性を残しつつ、「内向」して行く。
まわりに自分を表現することをしなくなり、どんどん内向する。
そうだ、この嵐のような感情を押し込めてしまえば、生きやすくなるのかもしれない、と考えてのことだった。
母のようになりたくない、という気持ちも強く、自分をコントロールすることでそうならないだろうとも期待した。

内向はすぐさま、身体の不調となって現れ、このころから過呼吸を繰り返し、パニック障がいになった。
そして、生きやすくなることもなかった。

優しさとは何か。
自由であるとは何か。
愛とはなんなのか。
思春期だからというわけでもなく、問いは続いた。

野生、と聞いて、それは知性と反対なことで、恥ずかしいこと、っていうのが世間の概念らしい。
私は、ああ野生的でいたいのに!といつも思う。それほど、頭で生きちゃってるんだ。
野蛮っていうのが褒め言葉なのも、すんなり理解した。それって元気だよね〜!って。もともとに還るというか。シンプルなこと。
私は還りたい。
強い自分に。
母とそっくりであろう、わたしに。

っていうか、今でもちゃんと(?)野蛮なのだけど。本来の質って、生まれ持ってきたものならば変わらないから。

余剰エネルギーの鬱滞を人間はいろんな手を無意識に使って晴らそうとする。
ケンカしたり、車でスピードを出したり、ギャンブルでハラハラしてみたり。

その人らしい生き方をすることが、こんなにも難しいだなんて、いつからなんだろう。

整体っていう切り口、身体の面からのサポートを学んで初めてみえてきたことがたくさんあります。
その人が生まれてきて、その使命を果たすのに、強制したり矯正したりが大切ではない。むしろじゃま。
その人であることを、じゃましてはいけない。
本当の思いやりとは、いかに。





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