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当たり前とか、普通とか

はじめましてのかたははじめまして。そうじゃないかたは再訪ありがとうございます。

チンジャオロースのピーマンほど特定の場面で抜群のポテンシャルを発揮することはないんじゃないかと思っているチキ野です。ほんとにかけがえ無いですよね。「水を得た魚」ってことわざがございますが、そろそろ「ピーマンを得たチンジャオロース」に変えたとしても、ピーマン農家が得することはあっても、誰も損することはないんじゃ無いでしょうか。

ん…?チンジャオロースを得たピーマンが正しいか…?

…??


さて、皆さんはどういう時に他人からの優しさを感じたり、嬉しいと思ったりするでしょうか。私はと言うと、自分の言ったことや好きなこと嫌いなことを覚えてくれていたりだとか、自分がその人にオススメしたことをその人が実際に体験してくれたりだとか、そういったわざわざ自分に時間を割いてくれたことに優しさを感じます。メンヘラでは無いです。

「自分のことをよくみてくれて、良いところを見つけてくれる」

というのも、自分のために時間や労力注いでくれていて、そこに優しさを感じられます。メンヘラでは無いです。

って優しさの話はいったん置いておいて、私が友人と会話をしていた時の話です。

知己野「◯◯さんが、とある運動が苦手な人に対して効果的な筋トレを教えていたんだよ。それでその時に言ってたのが、「(この種目が)できない場合は」って言うんじゃなくて「体力に自信がない場合は」って言い方してたんだけど、なんとも人の良さが表れてるよなあ」

友人「え、そう?普通じゃない?」

というように友人には一刀両断されて、まあ私もその時は「そうか」って思って何もなかったように会話は続いていったんですが、ちょっとこれについて考えてみることにしました。

結果、冒頭にあったように「優しさ」について見つめ直すきっかけとなり、また、当たり前とか普通とか思うことが、そうした優しさを阻害してしまうんじゃないか、と思うに至りましたので書いていきます。

〇〇さんがこうした言い方をしたのは、その運動できない人に対する配慮の表れだったと思うんですが、友人はそういう配慮や気づかいが普通であったり当たり前と思っているようです。もちろんそれについては素晴らしいことだと思います。礼儀をわきまえる、他人の気持ちに立つ、思いやることを当たり前にできることに何も咎められるようなことはないです。

しかし、例えば、他人の良いところを見つける場合には、そうした当たり前の色眼鏡は障壁となると思います。

まず、思いやりや親切心に気づいて褒めることが、相手の良いところを見つけることだという前提とします。大多数の人が、誰かに対して振りまいた親切心や優しさ・思いやりに他の誰かが気づいてくれて褒めてくれたりしたら素直に嬉しく思うでしょう。さらにそれが、よりさりげなく、よりささやかで、より気づきにくいものであればあるほど、気づいてくれた人に対して「あ、自分のことをよくみてくれているな」って思うでしょうし、その人のことを好きになり大切に関わっていこうと思うようになる。

そうした前提において考えてみると、小さな気配り・思いやりをあまりに当たり前なことだと思っていると小さな気配り・思いやりと認識することができず、結果的にその人の良いところに気づけず、褒めることで優しさを振りまくチャンスを逃してしまうことになると思います。(振りまくチャンスて、なんて邪な気持ち…)

これは気が利かないから気づかないということとはむしろ逆で、普段から気が利きすぎて気配りや思いやりが当たり前過ぎるからこそ気づかないという、面白い逆転現象みたいなことになっているように感じます。

そんなこんなで今後とも、誰かがしてくれたささやかな気配りには積極的に気づき、褒め、

「うわあ知己野ってこんなところ見てくれてるんだなあ嬉しいなあ」

って思ってくれるように、当たり前の色眼鏡をなるべく外してコミュニケーションをとっていこうと思います。(決して邪なんかじゃない…お互いにとってWin-Winなことなんだ…!)

ではまた次回。

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