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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の32]


5.近代(modern)と脱近代(postmodern)

5.2 観念説(続き)

はじめに

1271.  今回は、デカルトが『省察』の「省察三」で展開した神の第一の存在証明の前半にあたる論理を検討します。観念という哲学的装置の特性に依存した証明なので、観念とは何か、というあたりから考えて行きます。

観念:意識内容の私秘性

1272.  西洋近代の哲学文献にあらわれる「観念」(idea)*という語について、先に、二つの特徴を挙げました。第一は、観念とは、各人の意識の内容だ、ということ(番外編2の26:1065)。「リンゴの観念」とは、リンゴの概念的理解であったり、眼の前に見えているリンゴの知覚像であったり、記憶しているリンゴの心像イメージであったりする。いずれも、その人の意識の内容と呼べるものです。こういうものをデカルト以降の西洋近代の哲学者たちは“idea”と呼びました。

注*: 西洋哲学の専門用語の邦訳について、元の言葉を示すときは英語を表記します。デカルトの引用等でも、特に必要がない限り、同じようにします。

1273.  第二の特徴は、観念とは、各人の意識の中にあって他の人には原理上うかがい知ることのできない私秘的な(private)ものだ、ということ(番外編2の27:1105, 1106)。それぞれの人の心の中は、その人自身しか直接とらえることはできないとされます。心とその内容に関するこの特徴は、心のあり方にかかわる人類共通の約束事であり、「心の私秘性」と呼びます(同1087-1089)。

1274.  私秘的な意識内容の例を挙げておきましょう。私の中では、幼いころから、「浜松」という土地と、漫画「サザエさん」と、「崖から落ちたジープ」の心像が連合している。どういうわけか、浜松・サザエさん・崖から落ちたジープの三つがなんとなく結びついている感じがするのです(ただし、現在は、昔そういう感じがしてたことがあったなぁ、という記憶になっています)。今回、観念について考えていたとき、久しぶりに思い出しました。

1275.  小学校に上がるか上がらないかの頃、のちに建て替えられる生家の薄暗い居間のラジオのそばで、なぜかこの三つを思い浮かべていたという茫漠とした記憶があります。その後も時々、この三つがつながっている感じがしたことがあった。これはあやふなのに打ち消しがたい記憶です。私の心の中にこんな複合観念があることは、この世で私のほか誰も知るはずがない。斯くの如く、各人の心とは私秘的な領域なのです。もちろん、こんなに特殊な内容でなくもっと普通のことで、たとえば、今このとき私が見ているPCディスプレイの知覚像は、私以外の誰も知覚していない。人の心の中は余人にはうかがい知れない観念で充満しています。

デカルトにおける観念

1276.  デカルトの「観念」の用例を見ると、次のようなことが述べられています。下の引用は、前後の文脈を補わないとちょっと分かりにくいのですが、外部世界の事物の存在がどんなに疑わしくても、そういう事物の観念が心の中にあるということは疑い得ないのだ、と言っています。

「以前に私がまったく確実で明白であると受け入れていたもので、あとになって疑わしいと気づくにいたったものが、数多くある。どういうものがそうであったか。いうまでもなく、地や天や星、そのほか、私が感覚によってとらえたものすべてがそうであった。しかしそれでは、これらのものについて、何を私は明晰に認知していたのであるか。いうまでもなく、そういうものの観念そのもの、すなわち意識*が、私の精神に現れる、ということであった。そして、そのような観念が私のうちにあるということなら、今なお私は否定しないのである。」(『省察』「省察三」p.256**)

注*: 「意識」の原語(ラテン語)は「cogitatioコギタチオ」、英訳では「thought」つまり「考え」ということ。
注**: 野田又夫(編)『世界の名著 デカルト』中央公論社1967所収の『省察』のページ付け。以下同じ。

1277.  この一節は、第三省察の冒頭に出てきます。第一省察における懐疑を振り返り、第二省察における私とは考えるものであるという発見を述べたすぐ後です。議論のこの段階では考える私の存在は確立されている。だからデカルトは、いわば安心して、かつての自分を振り返っている。

1278.  自分は大地や天や星々の存在を疑わしくないものとして受けれ入れていた。しかし、その後、感覚によってとらえたものは、すべて疑わしいものとして否定することにした。ところが、この世に大地はなく、天もなく、星もないと否定しても、それらの観念が心の中にあることは、否定できない。これらの観念を自分は明晰に認知している。大体こういうことを言っています。

1279.  「観念が私のうちにある」ことがなぜ否定できないのか。それは、観念があることは、考えている私が存在するのと同じことだからです。「観念そのもの、すなわち意識が、私の精神に現れる」(上掲)とは、「意識」について注記したとおり、「思考が精神に現れる」ということです。考える私は存在する。私が考えるとは、思考が精神に現れることであり、それは観念が精神に現れることであり、すなわち、「観念が私のうちにある」ということです。考えているかぎり、精神になんらかの観念がある。

1280.  ただし、「考える、思考する」とは、この場合、心のはたらきすべてを包括する広い意味です。感覚したり、想像したり、疑ったり、理解したり、意志したりすることすべてを含む。私とは「考えるものである」(「省察二」p.249)というとき、デカルトの念頭にあるのは、この広い意味での思考、精神活動の全体のことです。

1281.  以上のとおり、考えることは観念をもつことです。ここから、「観念」という言葉には二つの意味があるとデカルトは注意します。ひとつには、観念をもつときの、その私の心のはたらきと取ることができる。考えているというそのことです。デカルトは「観念」という語は「悟性(intellect)の作用と解することができる」(『省察』「読者へのまえおき」p.232)と言います。

1282.  もうひとつには、「観念」という語は、考えるはたらきがかかわる事柄の方を言う、と取ることができます。考えることにおいて心の内で〝懐かれて〟いるもの。デカルトは、「そういう〔悟性の〕作用によって表現されたもの、と解することができる」(同上)と言います。こちらは、思考の作用によって表されているもの、つまり意識の内容のことです。

1283.  私の語感では、日本語の哲学用語としての「観念」は、後者の意味、つまり考えが表しているもの、ないし意識の内容を指す、という方が普通だと思います。この、意識の内容としての観念を手がかりにして、神の存在証明が組み立てられます。

西洋近代の認識論の定型

1284.  言葉遣いの整理に手間取りましたが、とにかく、私は考えるものとして存在している。懐疑を遂行し、すべてのものが存在しないと考えた。だが、疑ったせいで、そうやって考えている私の存在がかえって浮かび上がった。私は思考しており、その思考は内容をもっていて、その内容は観念と呼ばれる。かくして、考える私と観念が存在することは明らかである。だが、私以外の何かが存在するかどうかはまだ明らかではない。議論は今こういう段階にあります。

1285.  ここから、観念を手がかりにして、デカルトは、神の存在を証明し、さらに、神が欺瞞者ではないことを根拠として、考える私が明晰判明にとらえる観念、すなわち数学の諸観念は、外的世界のあり方を正確に表している、と論じていきます。心の内なる観念のありようから出発し、観念の特徴を検討していくことを通じて、心の外の真実在をとらえる、という議論の立て方になっている。

1286.  この〝心の内から心の外へ〟という議論の組み立ては、西洋近代哲学の認識論の定型のひとつになります。カントの認識理論やフッサールの現象学は、この定型を踏襲している。もうひとつの定型は、〝個別的なものから普遍的なものへ〟という組み立てです。ロックやヒューム、バートランド・ラッセルなどの経験論的な認識論がこちらに該当します。これはデカルトを扱った後で検討する予定です。さしあたり、デカルトの神の存在証明を紹介して、観念のどんな特徴から心の外における神の存在が結論されるのかを見ていきます。

1287.  なお、神の存在証明をデカルトは三つ提出しています。観念説に深くかかわっているのは、第一の存在証明として知られるもので、以下これを検討の対象とします。残る二つは扱いません。第一証明は、観念というものの性質をつぶさに見ていく作業として成り立っています。

観念それ自体は偽にならない

1288.  私たちは行住坐臥なにかを考えている。たとえば、誰かある人のことを考える。これは、その人を表す観念を心の内にもつことです。このように、観念はしばしば心の外の事物を表します。デカルトも観念とは元々は「ものの像」ないし「事物の似姿」であると言っています(「省察三」p.257)。

1289.  人間について考えるときは、人間の観念を心の内に抱く。神については神の観念を、ゴジラについてはゴジラの観念を、心の内に抱く。常識的にいって、人間は現実に存在し、神の存在は意見が分かれ、ゴジラは存在しないと考えられます。ところが、これらの観念を人が心の内にもつこと自体は疑いがなく、したがって、観念は――思考作用と思考内容それ自体は――偽ではないと言えます。

1290.  ここで、「偽」とはどういうことか、と疑問をもつ人もいるかもしれないので、一言添えておきます。さしあたり「有るものを無いといい、無いものを有るという」のは偽である、と考えておけば足りるでしょう。真であるとは「有るものを有るといい、無いものを無いという」ことです。この単純で常識的な定式は、アリストテレス『形而上学』1011b25~30から借りました。観念が心の内に〝ある〟ということ(すなわち、私が考えているということ)は偽ではないわけです。*

注*: デカルト自身は、真とは明晰かつ判明な認知であるとします。明晰(clear)とは、「注意している精神に現前し明示されている」(『哲学原理』第一部45節、野田(編)前掲書[1276参照]p.351)こと、判明(distinct)とは、「明晰であるとともに、他のすべてのものから分離され峻別されて、みずからのうちに、明晰なもの以外は何ものをもふくまない」(同上)ことです。「私はある」ことは、疑いのさなかで明示的に現前し、かつ考えているという特性によって他のものから区別されるので、明晰判明な認知となるわけです(小林道夫『デカルト哲学の体系』勁草書房1995、p.174注(27))。

1291.  さて、今、「恐れる」ことは、デカルト的な広い意味では考えること、つまり観念を心の内にもつことの一種になります。ところが、核戦争を恐れるとは、核戦争の観念を恐れることではなく、核戦争それ自体を恐れることです。感情において、私たちは、観念だけでなく、観念を越えた実物にかかわっている。

1292.  同様に、「意志する(欲する)」とき、あるいは「判断する(肯定または否定する)」とき、私たちは観念を越えた存在にかかわっている。「水が飲みたい」と考えるときは、水の観念を欲しているのではなく、水を欲している。「あそこに幽霊がいる」と考えるとき、幽霊の観念が存在すると判断しているのではなくて、幽霊それ自体が存在すると判断している。

1293.  デカルトは、このように感情や意志や判断は、セイレンやキマイラといった怪物を思い描く場合などとは違って、観念を心の内にもつことにとどまらず、観念以上の何かにかかわっていると注意します(「省察三」p.257)。そして、そうではあるけれども、恐れていること自体、欲していること自体、判断を下していること自体については、虚偽になることはありえないのだ、と言います。

1294.  人は現実の核戦争を恐れるのだが、核戦争は起らず、恐れる必要はなかった。こういうことはありえます。しかし、恐れを抱いたこと自体は偽にならない。同様に、水が手に入らないとしても、水への欲求を抱いたこと自体は偽にならない。「幽霊がいる」という主張が偽だとしても、「幽霊がいる」と判断したこと自体は偽にならない。

1295.  以上を一般的にいえば、

「観念は、たんにそれ自身において見られ、他のものと関係させられないならば、本来、偽ではありえない」(「省察三」p.257)

ということになります。心という領域は、外界の諸事実とは分離して扱われ、外からはうかがい知れない欲望や信念に満ちている。これは人類共通の心の理論の一部らしい(番外編2の27:1087, 1088)。それゆえ、「私はそう思うのだ」という主張は、「そう」の指す内容がどんなに外界の事実とかけ離れていても、そう思ったこと自体は偽になりえない*。したがって、「観念は、他のものと関係させられないならば、偽ではありえない」わけです。

注*: 私の考えでは、「偽になりえない」と言い切ることは厳密にいうと成り立たない。「お前がそう思ったというのは、お前の思い違いだ」と、第三者に心的内容そのものを訂正される――「私はそう思う」という自己認識が訂正される――局面がないとは言えません。その例は、番外編2の27の1102に示しました。

観念の三分類

1296.  以上のとおり、考える私の内には観念があります。それでは、観念を他のものと関係させずに、それ自体として見ることにしましょう。そうすれば誤りに陥ることはないのだから。すると、とにかくいろいろな観念が心の内にあります。デカルトは、それらを生得(innate)のもの、外来のもの、私自身のつくりだしたもの、という三つに分類します。分類するのは、観念のなかに外的事物の存在を指し示しているものがあるのかどうか確かめるためです。

1297. 処理しやすい順に取り上げると、まず、私自身のつくりだした観念とは、たとえばセイレンとかキマイラとか、あるいはゴジラとか、そういった空想上の事物の観念のことです(「省察三」p.258)。これらは心の外の実在物と結びついていないので、観念から出発して心の内から心の外の実在へ到達するための手がかりにはなり得ないことは明らかです。

1298.  次に、外来の観念とは外部世界にある事物を表す観念のことです。デカルトは、熱の観念を例に挙げます。「この感覚すなわち熱の観念は、私とはちがったものから、つまり、私のそばにある火の熱から、私の方へやってくるのだ、と思う」(「省察三」p.259) だが、感覚経験をしばらく検討した後で、感覚の観念が外から来ると思ってしまうのは「確かな判断によってではなく、たんに、ある盲目的な衝動によってであった」(同p.260)と結論されます。

1299.  この結論はすでに行なわれた懐疑の試み(「第一省察」)から当然予想されるものです。とはいえ、ここでもう一度、感覚の観念があっても外的世界の存在は結論できない、つまり懐疑は解除できない、と念を押していることになります。

1300.  生得の観念というのは、「私の本性そのものから得られる」(「省察三」p.258)観念のことを言います。「省察三」のこの箇所では「真理とはなんであるか、思惟とはなんであるか」(同上)という理解が例に挙げられている。たとえば、「私は考える、ゆえに私はある」というとき、考えるとはどういうことか、この命題は真なのかどうか、といったことは自明にわかる。だから、思惟について、真理について、私たちは生まれつきそれが何であるかの理解をもっている。こういう趣旨でしょう。

1301.  「方法序説」では、神が自然の中に定めた法則の観念は、われわれの精神の中に刻みつけられていると言われます(「方法序説」第五部)。だから、物理法則を表す数学の諸観念はすべて生得観念に数え入れられる。また、神の観念や私の観念も生得とされます。

1302.  1641年8月のある手紙の中で、デカルトは次のように書いています。

「幼児の心は、神の観念、自分自身の観念、および自明とされるすべての真理の観念をもっている。幼児は、成人がとりたてて注意を向けていないときに神や自己や真理の観念をもつのと同じ仕方で、そういう観念をもっているのである。年齢を重ねるにつれてそれらを獲得して行くのではない。幼児の心は、身体との結合から解放されたら、それらの観念をみずからの内に発見できるはずである。この点は疑いないと私は思う」(J. Cottingham, A Descartes Dictionary. Blackwell (1993), p.92.より)

神と自己と数学的・論理的な真理の観念すべてを、赤ん坊が心の内に気づかれない仕方で備えているというのは、空想的な主張のように思われますが、必ずしもそうではありません。

1303.  大ざっぱにいえば、理性主義ないし合理論(rationalism)とは、人間精神には真理を認識する力が生まれつき備わっているという主張です。プラトンは、魂は生まれる前に天上ですべてのイデアを見てしまっており、地上に生まれ落ちて知を得ることは、かつて見たイデアを想起することにほかならないと言いました(想起説、『メノン』)。これは理性主義の神話的な語り方です。チョムスキーは、人間は普遍的な文法構造を脳に装備していると考えました。これは理性主義の生物学的な語り方です。デカルトは、観念という17世紀の新しい哲学的装置を使って、心理学的に理性主義の主張を語ったと解されます。この場合、心の内なる観念を手がかりにして、心の外なる世界へ到達できるかどうか、そうやって真理を認識できるかどうか、それがこの哲学的主張の成否のカナメになります。

観念の表現的実在性

1304.  観念を三つに分類してみたものの、外なる実在に到達する手がかりになりそうな外来の観念は、実在と結びつくわけではないことが明らかになりました。外来の観念に頼ることはできない。想像上の事物の観念は論外です。残るは生得の観念になる。だが、生得であるとは私の心の内にあるということなので、生得であるからただちに外なる実在にむすびつく、ということにはならない。ここで、内なる観念から外なる実在に到達するもう一つの道を、デカルトは観念の表現的実在性(objective reality)という概念に求めます。この概念は、第一の神の存在証明において決定的な役割を果たします。

1305.  観念の表現的実在性とは、私の言葉で言えば、〝ある観念が表している対象によってその観念に帰される実在性〟をいいます。分かりにくい概念なので、具体的に考えます。キマイラの観念とは、頭が獅子で身体が山羊という怪物の観念です。キマイラの観念の表現的実在性とは、キマイラという架空の怪物によってキマイラの観念に帰される実在性ということです。同様に、イヌの観念の表現的実在性とは、イヌという実在物によってイヌの観念に帰される実在性ということ。

1306.  ここで、あからさまに読み手であるみなさんの常識にうったえます。以上の説明からすると、とりあえず、イヌの観念の表現的実在性は、キマイラの観念の表現的実在性よりも、かなり大きい、と言えそうに思われませんか。理由は簡単で、イヌは実在するのに、キマイラは架空のものだからです。なんのこっちゃわからん、と言われそうですが、こういう場合、なんとなく、イヌの観念が表現している現実味の方が、キマイラの観念が表現している現実味より大きいような気がしませんか。するでしょう。しないかな。しないかも。してください。表現的実在性とは、観念が表しているものから還流して、観念に帰される現実味、といったもののことなのです。

1307.  「とりあえず」とか「なんとなく」とか「気がしませんか」とか、ずいぶんいいかげんな表現が突然ならび始めたので、驚かれたかもしれない。表現的実在性という概念は、デカルトは大真面目なのですが、ちょっとつきあい切れねぇぜと言いたくなるような、根拠薄弱で怪しげなものです。神の存在を証明するという企ては、そもそも無理な話なので、どこかでこういう〝ちょっとなにいってるかわからない〟ことが混じってくる。とにかく、表現的実在性とは、〝ある観念が表している対象によってその観念に帰される(その観念に還流する)実在性〟のことを言う。

1308.  それなら、ゴジラの観念とキマイラの観念を比較したらどうなるのか。どっちの表現的実在性が大きいのか。それとも二つは等しいのか。こう問い詰められても、たぶん、誰も答えられない。表現的実在性は、大事な概念なのですが、私たちが種々の観念にあまねく適用できるほど精密に定義された概念ではありません。でも、決定的な役割を果たすのです。

1309.  デカルトが説明のために挙げる例は、次のようなものです。

「実際、疑いを容れないことだが、私に実体を表示する観念は、ただ様態すなわち偶有性を表現する観念よりも、一層大きなあるものであり、いわば、より多くの表現的実在性をそれ自身のうちに含んでいる」(「省察三」p.260)

実体(substance)とは、一つ二つと数えることができるような個々の存在物のこと。別の言い方をすると、さまざまな属性をたばねて保持している持ち主としての主語的存在のことです。偶有性(accident)とは、そういう主語的存在がたまたま有している属性のこと。だから、一人の人間は実体であり、身長170センチというその背の高さはその実体の偶有性である、と言えます。デカルトが言っているのは、実体の観念の表現的実在性は、偶有性の観念の表現的実在性より大きい、ということです。

1310.  実体としての一人の人間は、時間の中で一つのものとして存続します。その過程で、その人の身長はたぶん数十センチから1メートル70センチに変化した。その人が成長期にあれば、まだ伸びるかもしれないし、年を取ると少し縮むかもしれない。いずれにせよ、属性の持ち主である主語的実体は一定不変ですが、属性の方はさまざまに移り変る。デカルトが言っていることは、だから、一定不変の存在の観念の表現的実在性の方が、移り変るものの観念の表現的実在性よりも大きいのだ、ということです。この説明は、これで納得してくれというのなら、まあ受け入れてやってもいいかな、と思います。表現的実在性とはこういう概念なのです。

1311.  この概念を使って、デカルトは、神の存在を証明しようとする。こう言っています。

「それによって私が神を理解するところの観念、すなわち、永遠で、無限で、全知で、全能で、自己以外のいっさいのものの創造者である神を理解するところの観念は、有限な実体を表示するところの観念よりも、あきらかにいっそう多くの表現的実在性をそれ自身のうちに含んでいる」(「省察三」pp.260-261)

神は無限なる実体である。その観念は、有限の実体(人間・考える私)の観念よりもずっと大きな表現的実在性を「あきらかに」含んでいる。そう宣言しています。で、ここからどうなるのか。

1312.  心の内なる観念を、その表現的実在性を物指しにして相互比較する。すると、非常に大きな表現的実在性を備えている観念、つまり神の観念がそこにあるではないか。そんな大きな表現的実在性を備えた観念を、どうしてこの小さな私が持っているのか。私はそのように大きな表現的実在性を備えた観念の原因であり得るだろうか。原因と結果の論理に即して、それはあり得ない。すると、私がもっている神の観念は、神そのものを原因とすると考えざるを得ない。したがって、神は存在するのである。証明終り。

1313.  上でふれた〝原因と結果の論理〟については次回に紹介しますが、神の存在の第一証明は、大体こういうものです。がっかりする人もいるかもしれない。屁理屈じゃないか。そうです、まったくもって屁理屈といってさしつかえない。でも、歴史的に重要なのは、こんな屁理屈でこじつけてでも(デカルトはもちろん屁理屈と思ってませんが)、神の存在を〝証明〟せねばならなかった、という事実です。

1314.  神に降臨してもらわないと、新たな自然学(物理学)を正統の知識の体系として基礎づけることはできなかった。つまり、それが人々に受け入れられることはなかった。新たな自然学に神を勧請できなければ、おそらく科学革命は成らず、近代自然科学は生まれず、ひょっとすると近代社会は成り立たなかった。心の内なる観念から出発して神を見いだす過程に、西洋近代文明のすべてが懸かっていたのです。(少し言い過ぎかも)

1315.  というわけで、神の存在証明の後半部分、原因と結果の論理について次回に論じます。

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