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田村 均 元 名古屋大学の哲学教師  略歴 http://nagoya.repo.ni…

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田村 均 元 名古屋大学の哲学教師  略歴 http://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/25963# 著作 『自己犠牲とは何か』https://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0928-7.html

マガジン

  • 西洋近代と日本語人 第2期 2022.10.08~

    西洋哲学史の流れを背景にして、近代日本の西洋文明の受容のあり方を考えます。 毎月、第2、第4土曜日に記事を公開する予定。

  • 西洋近代と日本語人 第1期 2021.08~2022.07

    人間生活と暴力のかかわりについて論じています。発達心理学、霊長類学、行動経済学、進化生物学、文化人類学的戦争研究、それから、映画批評、美術批評などの異なる分野を横断して、なぜ私たち現代日本語人は自信をもって〝正しい暴力〟をふるうことができないのか、を考えています。

最近の記事

西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の34]

5.近代(modern)と脱近代(postmodern) 5.2 観念説(続き) はじめに 1391.  前回(番外編2の33)は、観念の表現的実在性というデカルトの独特の考え方について検討しました。デカルトは、「観念」という言葉を使うにあたって、「私の意識のうちにあるものは、いわば、ものの像(image)であって、これにのみ、本来、観念という名はあてはまる」(『省察』「省察三」p.257*)と言っています(番外編2の32:1288)。観念とは、多くの場合**、なにか

    • 西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の33]

      5.近代(modern)と脱近代(postmodern) 5.2 観念説(続き) はじめに 1316.  前回(番外編2の32、2024年3月9日公開)は、デカルト『省察』の神の第一の存在証明の前半部分を紹介しました。考える私の心の内にある観念を分析し、それぞれの観念が何かを表しているという表現的な性質に着目して、表現的実在性(objective reality)という概念を導入する。これが主題でした。デカルトは、このあと、因果性の概念にもとづいて神の存在を証明する。

      • 西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の32]

        5.近代(modern)と脱近代(postmodern) 5.2 観念説(続き) はじめに 1271.  今回は、デカルトが『省察』の「省察三」で展開した神の第一の存在証明の前半にあたる論理を検討します。観念という哲学的装置の特性に依存した証明なので、観念とは何か、というあたりから考えて行きます。 観念:意識内容の私秘性 1272.  西洋近代の哲学文献にあらわれる「観念」(idea)*という語について、先に、二つの特徴を挙げました。第一は、観念とは、各人の意識の

        • 西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の31]

          5.近代(modern)と脱近代(postmodern) 5.2 観念説(続き) 1244.  前回、本居宣長の「物のあわれを知ること」の認識論を検討して見いだしたことは、宣長は懐疑論の洗礼を受けていなかったようだ、ということでした。なお、懐疑論とは、さしあたり、自分は真理に到達できないのではないか、という疑いのことをいうものとします。懐疑論は、人間は真理に到達できないのではないか、という一般的な形式も可能ですし、お前たちは真理に見放されている、という論争的な形式で現れ

        西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の34]

        マガジン

        • 西洋近代と日本語人 第2期 2022.10.08~
          34本
        • 西洋近代と日本語人 第1期 2021.08~2022.07
          20本

        記事

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の30]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き) 4.5 愛の思想と日本語人(続き) 4.5.3 物のあわれの説と西洋における愛の思想の相違点(続き) はじめに 1205. 前回、最後に次のように記しました。 「物のあわれを知ることは、エロースと違って、世界の存立根拠の探求につながらす、アガペーと違って、行為者の自由意志を前提せず、ピリアーと違って、社会的関係において理性的思考を要請しない」(番外編2の29:1204) 今回はこの結論をもう少し考えてみたい。 12

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の30]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の29]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き) 4.5 愛の思想と日本語人 4.5.2 本居宣長と西洋思想を対比するために 1162.  今回と次回の2回にわたって、本居宣長の「物のあわれ」の説と西洋における愛の思想を対比して検討します。対比するといっても、宣長と西洋思想のあいだには、私の知るかぎり影響関係はないので、少し注意が必要になる。漱石は、西洋思想も学び、キリスト教も知り、恋愛は神聖なものだという考え方も一応わきまえたうえで、近代日本における恋愛の困難を主題にし

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の29]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の28]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き) 4.5 愛の思想と日本語人 はじめに 1113.  愛について、思いのほか長くこのブログで考えてきました。振り返ると、「番外編2の5」で夏目漱石の『こころ』を取り上げて以来、ずっと近代日本における愛について考えて来たことになります。こういうことになると予想してはいなかった。ブログ第2期は、「ものごとを実現して行く根底には力がある、その力とは何か」(番外編2の1:8)という問いから始まっています。そして、思想史を展望して、「

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の28]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の27]

          5. 近代(modern)と脱近代(postmodern) 5.2 観念説(続き) 前回への補足 1072. 前回の記事の後半から、初期近代(early modern)の西洋哲学史を扱っています。愛(アガペー)の話から近代哲学史に話題が移ったのは、もっぱら私の連想によります。私の直観的連想によれば、「愛は再興されたが愛は人には不可能なものであることが判明する、というルターの陥った困難は、……真理に到る道を再興したが真理に到るのは人には不可能であることが判明する、という

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の27]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の26]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き) 4.4 愛の思想について 4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー 4.4.3.3. アガペー(愛)について 個人と愛、近代と脱近代 1036.  夏目漱石や本居宣長を取り上げて、近代日本における個人と愛の問題を考えているうちに(番外編2の8~16)、西洋の代表的な愛の思想の検討をすることになり(番外編2の17~24)、そこから思いがけず近代(モダン)と脱近代(ポストモダン)のせめぎ合いという大がかりな思想史の主題に

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の26]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の25]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き) 4.4 愛の思想について 4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー 4.4.3.3 アガペー(愛)について 前回への補足 1013. 前回は、神の愛(アガペー)が原罪を帳消しにする(イエスの死が人類の罪を贖う)とはどういうことなのかについて、あえて我流の説明を与えました。今回は、まず前回の議論への補足を行ないます。そして、その後、次の論点に移動するためのつなぎの議論をします。というのも、いずれ述べますが(1025)、

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の25]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の24]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き) 4.4 愛の思想について 4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー 4.4.3.3 アガペー(愛)について 愛と自由について 969 前回は、大略、以下のような話をしました。隣人愛は、人から人への善意のはたらきかけであり、愛(アガペー)は社会を形成する原理として機能する。しかし、そのアガペーとしての愛は、「現行の社会秩序を拒絶する自由が個人に大きく認められる」(番外編2の23:963)ことを必須の前提とする。アガペー

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の24]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の23]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)4 4.4 愛の思想について 4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー 4.4.3.3 アガペー(愛)について 方針の変更 909 キリスト教的な愛(アガペー)の話を、番外編2の19(2023年8月12日公開)から4回にわたって続けてきました。でも、私の言いたいことになかなか行き着かない。前回(番外編2の22)の公開時に、ツイッター(X)で、「今は、どこかに出られると信じて、出口の見えない地下道を進んでる状態」と述べま

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の23]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の22]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)4.4 愛の思想について 4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー 4.4.3.3 アガペー(愛)について アガペーの四つの特徴 882 前回はキリスト教的な愛としてのアガペーの四つの特徴を、ニーグレンの『アガペーとエロース』*から抜き出して示しました。アガペーは、 第一に、自発的であり(spontaneous)、外からの動機づけによらない(unmotivated)。すなわち、外なる対象に接することから生まれる愛ではな

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の22]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の21]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き) 4.4 愛の思想について 4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー 4.4.3.3. アガペー(愛)について アガペーの原型 854.  前回は、アガペーの原型が、十字架上のイエスの死である、ということを見ました。罪を犯した人類を、罪の手から解放するために、「キリストを神は宥めの供え物として定めた」(ローマ3:25)*のでした。イエスの死は神の意志の定めたことだった。それは人間を罪から救済する意志であり、我が子の命を

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の21]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の20]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き) 4.4 愛の思想について 4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー 4.4.3.3. アガペー(愛)について 前回への補足 815. 前回は、原罪(original sin)とは底なしの懐疑のことなのだ、という私の直感的な解釈を示しました。〝底なしの懐疑〟とはどういうものなのか。懐疑は、通常、底なしではなくて、疑いを晴らす標準的な手続きの認識をともないます。グラスに入っている透明の液体が、水なのか焼酎なのか疑われる場

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の20]

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の19]

          4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き) 4.4 愛の思想について 4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー 4.4.3.3. アガペー(愛)について 783. 今回から、キリスト教的な愛、アガペーを取り上げます。キリスト教は、日本近代に対して直接的なかかわりをもっている。明治維新以降、日本語人が熱心に取り入れてきた近代文明そのものが、キリスト教と不可分だからです。個々の日本語人とキリスト教との距離感は、近代文明の受容にさまざまな影響を及ぼしてきたはずです。そ

          西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の19]